2011.9.14(2011.10.14 komoriharuka)

 

久慈のコンビニの外で朝ご飯を食べる
それから久慈の海岸沿いを見ながら下ろうと決め出発

一車線しかない道をゆっくり通る
右は岩山、左は海
ディズニーランドのアトラクションみたいなトンネルをくぐっていく
地元の人はすいすいその道を走っている
そしていつのまにか道に迷っていた
小袖海岸という場所につく
大きな岩山に鳥居が立っている
そこに小さな建物があって人がいる気配がしたので
道を尋ねてみることにした

中には2人のおばさんがいらっしゃって
休んでいって下さーいと声をかけてくれた
なので私たちはお邪魔することにした
実はそこにいたお2人は海女さんだった
海女さんにはじめてお会いしたのでびっくりした
建物の中には写真が飾ってあって
古いものから最近の写真まであった
応援の寄せ書きも貼られていた
この建物は津波で流されてしまった海女センターを仮で建てたものだという
そして表に貼ってあった海女さんの見学券のポスターを作り直すことになった
カレンダーの裏をつかって瀬尾が絵を描く
わたしも「アイス販売してます」というのを書いた

写真を見せながら、昔の海岸のことを話してくれた
「17歳のときから海にもぐっていたのよ、
昔はこの辺りまでずっと岩の海岸が続いてたの」
今ではそこはコンクリートで埋め立てられていた
最近まで若い人もやっていたというが
今はお2人しか海女さんはいないという

「勝手にもぐることはできないから、
お客さんが来て見学券を買ってくれてやっともぐれるの
数日海にもぐっていないとすごく寂しい
震災からはしばらくもぐれなかったから
今またもぐることができて嬉しいの
わたしたちが来てくれて
今日ももぐれるからよかったわ」と話してくれた

取材していると話したら、漁師さんたちをとればいいじゃないといわれ
外に出てみた
すぐそばで漁師さんたちが集まって船を直していた
船は流されてしまったため、いろんなところからもらったのだという
もう漁ははじまっているようだった
船の上にたくさんの漁師さんが乗っていて
木材をつかって直している
今度漁に行く時連れて行ってやるよと行って
いつのまにかみんな一斉に軽トラックで去っていった

それから海女さんがもぐるのを見学することになった
2人は急に準備をはじめた
今は衣装が流されてしまったからウェットスーツでもぐっている
腰に重そうなベルトを装着して、カマのようなものを挟み込む
大きな網もぶら下がっている
水中メガネもつけてばっちりである

少し波が荒かったが、もぐってくれた
時には本当に荒くても取材のためにもぐらされるという
こっちはいつももぐるときは死ぬ覚悟でやってるのよと言っていた

上から見ていると水中で何が起こっているのかわからなかったけど
海女さんが海面から顔をだすと手に大きなウニを掴んでいるのがわかった
それが腰の網の中にどんどんたまっていく
ウェットスーツの胸の部分には貝がたくさん入っていた
水中で見たかったなーと思った
たまたま散歩で通りかかった男の子とお母さんも一緒に見ていた

とれたてのウニをざくっと割って
スプーンで食べる
すごくおいしい!すごい贅沢だなー
ちょっとしょっぱくて、でもウニの味がすごい
ゆでジャガイモを食べていたわたしたちにはありえない贅沢だった

ここにいまあるウニは他の場所からもってきたウニであるという
津波によってウニはほとんど流されてしまったようだ
ウニがこの場所に生息しはじめるには5年はかかると言っていた
だから今日とったウニも残りは海に戻す
男の子が一つずつ海に投げていた

それからゆでた貝を食べる
これまたおいしい
はじめてあんなに一気に貝を食べた

お昼ごはんまでごちそうになる
次から次に食べ物がでてくる
ごはんで出たごみはカモメが食べるというので
外にでて投げるとすぐにカモメがたくさん集まってきた
足の片方ないカモメにお菓子をあげたりしてのんびり過ごしていた

気付いたら夕方近くなっていて
さすがにそろそろ出発しなければとなりさよならをする
約束していたお祭りには結局いけなかったのだけど
今度はわたしたちも水着をもってきて一緒にもぐれたらいいな

野田村へ出る道を教えてもらってボランティアセンターへ
村役場のとなりに建てられた仮設の建物の中にセンターはあった
お二人の職員さんが取材に応じてくれた

野田村では津波の意識は元々あったが浸水というイメージで
こんなに大きな津波がくることは想像できなかったという
被害が大きかったのは住宅などが密集している場所だったというが
過去に大きな津波があったからなのか
小学校や中学校は高台に建てられていて被害が少なかったと言う

社会福祉協議会の持ち物で唯一助かったという100着の黄色いジャンパーを着て
寒さをしのぎながらボランティア活動していたようだ
そのジャンパーの洗濯のため職員の方が震災から1週間たって隣の久慈市にいったとき
久慈市内はいつもと変わらない生活がそのままあって
なんなんだろうというギャップを感じたという
野田村は被害の大きかった沿岸地区の一番端である
毎日見ている風景とはまったく違った普通の日常をみたとき
まるでテレビの中にはいったり出たりしているようだったとおっしゃっていた

津波の境目というのは今ではわからなくなってしまったけど
当時はものすごくくっきりとそれが分かった
ここまで津波がきてここからはきていないという引かれてしまった線があった
それがこんなにはっきり見てわかるものなのかと私たちは4月に驚いたことだった
テレビで見ていたら沿岸全部あの光景になってしまっているのだと勝手に思っていたけど
本当にちょっとの差でそれは全然違った風景になっていて
その境界線は細かく複雑に市町村の線を越えて入混ざっているのを見た
津波の来ていない場所は、確かになにもなかったかのように
普通に人々が歩いているし、生活している
それまで同じようにみんな生活していたのに、それがちょっとした土地の関係で
こんなにも差ができてしまったのかと思った

それがわからなくなってしまった今、想像するのはとても無理があるし
そこに住んでいた方に聞いてはじめてその場所に津波が来ていたことがわかる
4月に来てその場所を見たことがある私でも、思い出すのが難しいくらい
表面的には元通りの生活になっている

その当時を知っている人、また元のその町の姿を知っている人の
見たものや感じていたことは忘れないものにしたいと思う
それがなくなっちゃったら本当に何があったかすら分からなくなってしまう
次の震災のためというのももちろんあると思うけど、もうちょっと違った理由もある
私自身、何かあれほどの体験をしたことがなかったし
この震災によって考えた事もなかったことを考えるようになった
今生きている生活だとか、この国のことだとか、全然知ることもなかった人の人生とか
色んなものを一から考え直さなければいけなくなって
当たり前だったいわゆる普通の生活というものが何だったのだろうかとか
「そもそも」のことを考えていた

それは東京でぐちゃぐちゃ考えていただけだけど
たぶんみんなそんなことを考えている時間があって

それから東北に来ていろんな人、町、生活に出会って
今はもっとそのことを別のところから考えたりすることができて
たぶん、その上で今私が見たこととか聞いたことは
もう一度考えなおさなければいけなくなった「そもそも」のところと繋がっていて
人が生きながら当たり前のようにやってのけている
ここに来て知ることが出来たたくさんの生活や、
1人ひとりの人生のこととかかを伝えたいと思っている

野田での取材をおえ、また古墳の湯へ
たまたま食事をしていたらオーナーや社長がいて
一緒に食事をすることになった
とれたてのさんまのお刺身や塩焼きをごちそうになった
明日はそこできいた久慈のお祭りにいくことになる
ここでもしばらくの間無料開放していたようで
たくさんの方が利用していたと聞いた
ボランティアさんもたくさん集まったらしい
瀬尾がオーナーの似顔絵をかいたり
船に絵を描く話などで盛り上がった
今日はここで寝かせていただくことになって
おおきなソファでねる

 

 9.14(10.14)