2011.9.15(2011.10.15 komoriharuka)

宮古市へ向かう
久慈からは約100kmくらい離れている
宮古市にも4月にボランティアに来たことがある

その時は小学校の避難所でお手伝いをした
自衛隊の方が運んでくれた食料を
お母さんたちが家庭科室で手際よく料理したり仕分けたりしていて
その姿がとても印象に残っている
確かカレーを作っていた、サラダもあったな
頼もしい姿を見て、ここはきっと大丈夫だって思った
ボランティアセンターに着いたときも、
若い職員さんがたくさんいて、すぐに対応してくださって
なんとなく安心感があった

その時にお会いした社会福祉協議会の職員さんに
取材をすることになった
その方も私たちのことを覚えていてくれて
たくさんのボランティアさんに会ってきているのに
一日しか来てない私たちのことを覚えてるってすごいなと思った
嬉しかった

宮古市は比較的はやく瓦礫撤去の作業は終わったという
今は仮設住宅の支援を進めていて、自宅に住んでいる方の生活にも
これから目を向けていかなければならないと言っていた

瓦礫撤去の時は自転車でボランティアさんに移動してもらったりしていたようだ
他の場所に比べてそこまでたくさんのボランティアが集まったわけではないが
進みがこれだけ速いのは何か結束力があったのかなと思う

それぞれの地域によってボランティアセンターの雰囲気が全然違う
それはもちろんその町の元々の感じもあるのだと思うけど
運営されている方が地元の職員さんでちゃんと進行できている場所は
その雰囲気からこの町の良いところを見れるような気がする

この町を知らない人がたくさんやってきて
ボランティア活動をするというのはとても大変なことだと思う
どう受け入れていくのか、その進め方も町によって全然違うのであるが
人と人とを繋いでいく時に大事な事って
やっぱりその場所に特有のコミュニケーションなんじゃないかなと思う
もちろん個人によっても全然違うと思うけど
でもまず最初に出会うボランティアセンターの方の雰囲気だったり
受け入れてくれる時の対応によって
その町での活動や、そこに住む方との接し方も変わってきてしまうよなーと思う
もちろん全部がそうではないけど。
おそらく逆もあって、住民の方からセンターの方が信頼されていなかったら
依頼も来ないし、ボランティアに対する気持ちも変わってきてしまうと思う

はじめてボランティアセンターを立ち上げたという方がほとんどであったが
それでもそこに住んでいる人だからこそできたことは
今後のこの町がどうなっていくのかにつながっていくと思う
社会福祉協議会がそもそもやっていた町のための福祉活動のあり方も
きっとこれをきっかけに変わっていくし、
住民の方とのつながりも今までとはまた違った信頼関係になるだろうなと
それはその町にとって、すごくいいことな気がする
今でも外からやってきた人たちが勝手に支援活動を進めてしまっている話を耳にするが
最終的にずっと住み続けていく人たちが作りだした関係を見たり聞けたりするとき
わたしはすごくすてきだなと思う

それから宮古市田老へ
田老も何度か来ている
仮設でオープンしていた商店でのむヨーグルトを買う
今ではあの時にみたローソンやガソリンスタンドはすっかりなくなってしまって
目印になるものがほとんど残っていない状態だった
同じ場所に立ってみて、記憶の中で覚えている景色と重なったり離れたりしながらカメラをまわした

はじめてきた時はそこにおじいさんがいた、とか
自衛隊の人が見張りで立っていた、とか
川の中にたくさん瓦礫がたまっていた、とか
瀬尾が黄色いジャンパーを来ていた、とか
空が晴れていた、とか
意外とカメラをのぞきながら思い出されることがたくさんあった
その状態だと何を見ているのかよくわからない

道路の脇におばあさんが立っていた
困っている様子だったので声をかけると
グリーンピアへ向かうバスをまっているという
わたしたちもグリーンピアに行きたいと思っていたので
おばあさんを送ることになった
おばあさんのお家は本当にほとんどの家が流されてしまった場所なのだが
病院のすぐ裏だったのでなんとかまだ家が残っていた
黄色いお家だった
今は修理をしていて、それを見に来たのだと言っていた
田老地区ではそこに住まれていた方が全員避難できるグリーンピアという場所があった
観光複合施設で、大きな体育館もグランドもホテルもある場所だ
夢の避難所と言われていた場所だ
私たちが一度お邪魔したときはまだ避難所と仮設が半々の状態だったが、
今ではグランドに建設された仮設住宅にみなさん住んでいるようだった
いいお天気だったせいかたくさんの方が外でくつろいでいる様子を目にした

田老は三陸津波で明治から何度も大きな被害にあっている場所だ
だけど10mの防波堤ができ、それは三陸津波の伝承施設として伝えられてきた
町中をぐるっと囲んだこの防波堤ができたことによって
住民の方はまた同じ場所に住んでいた
また、チリ津波から逃れたことによって、この防波堤が守ってくれたという意識も強くあったのだと思う
三陸大津波を伝えるための紙芝居もあるし、標識でも大きく残されている
津波防災の町として有名だった場所だったのだが
今回の津波によってその防波堤はいとも簡単に壊されてしまった
田老に到達した波の高さは30mだという
また同じようにたくさんの住宅が流されてしまった

これから、またこの場所に住むのだろうか
おばあさんは家を修理していたからまた住むのだと思う

どうやって何を伝えていくことが重要なんだろうか
防波堤をつくるのは、もう本当に意味があるのかわからないが
新聞では田老にあれよりも大きな防波堤を作る記事が出ていた
高台移転賛成の住民が多いというニュースも見たが、
ここは漁村だから漁師さんは海の近くに住みたいという記事もみた
色んな人が考えた新しい町のモデルもたくさんあるようだ

これだけ津波のことを伝え続けようとしてきた町で
また同じような大きな被害があり
誰が何を守っていきたいのかよくわからなくなってしまっている気がした
住民の方がそこに住みたければ住むのが一番いいと思っていたけど
この町の歴史とかを考えると、それが正しいのかもよく分からない
でも、このことは田老に住んでる方と直接話したわけではないから
またここに来て話を聞いてみたいと思う それからまた考えたい

それから田野畑村の島越、平井賀へいく
4月、宮古の避難所でお会いした方のご実家があるとのことで
はじめて聞いた地名だった
両親をなくされているが、まだ私は見に行けないから
見てきてちょうだいと言われたのがきっかけだった
それから記録するのを私たちは始めた

もうこの場所には何もなくなっていた
ここに集落があったことなんて想像もできないほど何もなかった
私たちが4月に見た景色からどこまで大きく変わったのかわからないけど
瓦礫もすべて片付いてしまったこの土地は
人の気配も何もなかった
ここに駅があったことはなんとか分かるのだけど、それ以上に
人がここに住んでいたことは想像できなくて
どんな生活があったのかとか、どんな家が並んでいたのかとか
その形がわからなかった
ここではあまり音がしない
海の音は少し聞こえるし、車の音も少し聞こえるけど
ここに流れていた時間そのものがまるごと消されてしまったような気がした
数件、山際には家があって生活している方がいたけど
これからこの下にまた家が地続きにつながることはないと思った
残った場所は、ただ一つの家としてそのままあり続けるけれど
その家があるべき町はここにはもうできない
そんな風景だった
でも、またこの場所には来たいと思う

その後は久慈の秋まつりへ
前夜祭だというのにとても派手なお祭りだった
神輿も、ただの神輿ではなく、煙をはいたりどんどん伸びたり変形していく
すごいからくりが仕込まれた神輿だった
なんでこんな技術を持っているんだろうかとびっくりするぐらい職人技だった
みそ豆腐ともち、焼き鳥、お好み焼きなどをたくさん食べる
食べるのに夢中になって御神輿が動くところを見逃してしまった

また古墳の湯に戻る
3日連続お世話になった
瀬尾の描いたオーナーの似顔絵がフロントに貼られていた
それがおかしすぎて通るたびにくすくすしていた
早朝には漁港へイカ釣りの船が出るところを見に行く予定だ
イカ釣りのことは明日の分に書きます

 

 9.15(10.15)