2011.9.30(2011.10.30 komoriharuka)

 

朝は南相馬市の鹿島地区へ取材に
鹿島のボランティアセンターに来るのは初めてだった

そこは介護施設と一緒になった場所で
最初わたしたちが早く来過ぎてしまったこともあり
異様な感じで待つことになった
スタッフさんも忙しそうな中、申し訳ないなと思いつつ
南相馬市の広報紙などを読んでいた

対応してくださったSさんに
最初、取材の主旨やこれからどう発表していくかを問われた
今まであまり尋ねられたことがなく、あいまいに答えてしまい
不快な思いをさせてしまった
今まで飛び入りで突入して、アポなしで取材を続けてきたので
本来当たり前にやらなければいけないところをすっ飛ばしていた
それでもSさんは親切にお話してくださった

震災直後、鹿島では津波の想定はなかったようで、
職員さんが家が流されたとか、テレビで津波の状況が出てきていても
信じられなかったという
この施設も避難所になったのだが、市から援助がもらえず
職員さんの家にある食料をかき集めて一週間分の炊き出しをしたようだ
その間に原発事故の発表があり、
バスでの避難がはじまったという

南相馬市でも鹿島と原町では随分違うようだった
立ち上げの時期も違うし、運営の仕方も違っていた
原町よりも本格的な活動は遅かったようだ
そのせいかボランティアさんも原町に多く集まっていたようで
救援物資も偏りがあったという
次第にボランティアさんが流れてきて、最初はセンターも立ち上がっていなかったので安否確認を手伝ったりしていたそうだ
4月2週目くらいにセンターを立ち上げてからも
アクセスが悪くボランティアさんはあまり集まらなかった
物資も届けてくれる方がいなく、仙台や郡山まで取りにきてほしいとのことだった
それも難しかったのでお断りするしかなかったそうだ
ボランティアだけでなくニーズもなかった
明らかにどうみてもニーズはあるのだが、
ボランティアにお願いするという認識は住民の方にはなかったという
スタッフさんで住宅を歩いて声をかけながら少しずつ手伝って
それからボランティアというものを知ってもらったそうだ
GWあけてようやく人手もニーズも集まった
Sさんたちはマニュアル通りではなく自分たちで考えたマッチングなどをしていたそうだ
朝は全員集合して、メガホンで一気に全員に説明をする
そのやり方が一番よかったんだよーと誇らしげに話されていて
その光景はちょっと見たかったなと思った

これからの鹿島の復興計画はまだ出ていないという
どんな町になっていくのか、駅がどこにできるのかもわからないそうだ
そして子供たちが避難していなくなってしまったのも不安だと仰っていた
「もちろん子供たちが避難するのは当たり前のことだけど
町に子供の笑顔がないのは寂しいことです
子供がいないと復興が進んでいかない、これからの鹿島の未来が見えないからね
でも、ここに残ってる人は腐ってないから大丈夫ですよ、
全部が全部だめになってしまったわけじゃないですよ」と笑っていた

やっぱりこの場所にきてボランティア活動をしてほしい
そこで見たことや聞いたことを持って帰って発信してほしい
戻りたくても戻れない人たちもたくさんいる
その現状を伝えてほしい
今まで知られることのなかったのどかな田舎町だから
みんなやっぱりここに住み続けたい気持ちはあると思う
私もこれからもずっとここに家族一緒に住み続けたい
というお話が印象に残っている

元々鹿島と原町は違う町であった上に
原発からの30kmという線が引かれてしまった
私たちからしたら同じ南相馬市であるけれど
それぞれで抱えている問題も、考え方も違う
頭ではわかっていても、改めて取材にいって知ることはたくさんある

これで取材は最後だった
今まで取材してきて、どうしても行く前は緊張があったり
行って何が得られるのだろうという不安を少し持ちながらというのは毎回あった
それでもお話を聞くと「行ってよかった」と必ず思う
もしそこで話されている問題が、大きくみたら同じであったとしても
その場所にいる方の口から直接聞くのはやっぱり全然違う

この町が大好きなんです、ずっと住み続けたいです
という言葉をどの町でも聞いた
何度聞いても印象に残っていて
それを話される時の表情がとてもすてきだなと思う
私は数時間しかその場所にいなかったとしても
その方の言葉と、その時に見た町の風景は絶対に忘れないと思う
突然来た私たちに、時間をかけて伝えて下さった
誠実な思いや記憶をちゃんと伝え残していきたい

仙台での用事を終えて、予定がすべてなくなった
どこに行こうかと話し、荒浜に向かうことにする

荒浜には9月の間に一度来ていた
全く同じ場所へ到着する
海岸を見に行く
海岸に行くまでの道は砂とコンクリートと倒れたフェンスでごちゃごちゃしていた
そしてたくさんの花が手向けられていた
波はとても荒れていた
恐ろしかった
複数の波が混ざり合って轟音をたてていた
3.11当日のニュースのことを思い出した
「荒浜沖で200人の遺体が確認されました」
何度もアナウンサーが繰り返していた
その時はまだ地震や津波の正確な犠牲の規模は分かっておらず
わたしはその声を聞いて、本当にとんでもないことが起こってしまったのだと理解した
荒浜がどこかも知らないし、どのように遺体が確認されたのかもわからないけれど
ただその事実を理解するしかなかった
どんな想像も追いつかなかった
その荒浜に今立っていて、私の背面にあるはずだった松林も住宅街も呑み込んでしまった波を見ている
住宅街の跡地は、色がなかった
台風のせいかこの前あった神社の鳥居にかかっていた楽器がなくなっていた
コンクリートの地面があって、草が少しだけ生えていて、木が変形して立っている
墓地が見えた
それは「死」にとても近い気がした
死んだこともないし、漠然とした私のイメージでしかないけれど、
死ぬことについて自然と考えていた
ここが現実なのかどうかももはや分からないくらい
何を見ているかわからなかった
そしてここで何があったのかは、この場所に来ても
あのニュースの声を思い出すしかなかった

今まで4月から沿岸を見てきて、その様子は少しずつ変わっている気もするし
何も変わってない気もする
どこかで私もその風景に遭遇することには慣れてしまっていて
津波がきてこうなったのだと了解しているし
細部の事実は、歩きながら発見していくか、
人に会って話を聞いて知るか、になっていた

でもこの場所は細部がどうのこうのというより
全面から出てきている何かとてつもなく大きな力によって
この風景が今目の前に存在している現実を訴えてきているような気がした

9月最後の日にここへ来ることができてよかった

9月30日は瀬尾と私が東北への活動をはじめてからちょうど半年の日だった
半年なんだよ、と瀬尾にいうと
まだ半年か!そりゃまだまだだわ、と言っていた

2人で仙台に戻る
荷物をまとめる
シビックにはのんちゃんを置いてきた
なんの余裕からか、冷蔵庫にあったクリームチーズと梅酒を飲み始めた
浮かれ気分である
それからKさんのお家でごはんをごちそうになる
意外とギリギリでタクシーにのって仙台駅へ
夜行バスにのる
なんか色んなことを考えながら寝てしまった
朝、東京駅について、特に何も話さないまま京浜東北線にのって
またね、とさよならした

ここからは10月の今の話
この一ヶ月に見たものはたくさんあり過ぎて
一日ずつ思い出して書く作業をしても、やっぱりまだまだ書ききれてないことがあるし
忘れてることも、本当にそうなのだろうかと考えを疑いつつ書いていることもある
それでもはっきりしているやらなければならないことは絶対にあるし
それはやろうと思う
そして、まだまだ全然だけれど、少しずつ自分の中でも
これから何をしようとしているのかを考えれるようになった

ちょうど大量の映像の取り込みも終わった
毎日書いたあとに映像を見るようにしていた
映像を見てから書くと、その記憶になってしまうし
普段文章を書かない私はその方がいいだろうと思った
その後に見る映像は、思い出すためというよりは、
もう一度その時間を記録していたものをただ見たいというのに近くて
全く別のものを見ているようだった
観察のような感じである
一度思い出してから見るという作業は、今までしたことがなかった
現実にあった時間と、映像に収められた時間ではリアリティも見えるものもまったく違う
そこで起きている差異がとても面白いと思うし
どちらに偏るでもなく、映し出された現実と、そこには映らなかった記憶や姿を行き来しながら
まとめることができたらと考えている

カメラを構えることすらできなかった体験は今でも覚えている
あの時は使命がなければ映せなかった
今まで自分が考えていた映像の秩序もそこにはないし
構図とか、録画時間のタイミングとかもないし
私がその場所から撮らされるということがまずなかった
今ではカメラを向けることも以前よりは自然にできるようになっているし
映る人も了解した上で撮影ができている
当初の体験があったからこそ、今撮れるものがあって
そのことは、私がこれから映像作品をつくっていく身として忘れないようにしたい

あと、やっぱり瀬尾という人物は映像で見ていて面白いと思った
彼女を軸に見ることができる人の姿や町の風景があると思う
カメラを向けられている時どうしたらいいのかわかんないんだけど、とこぼしてたなー

まだ何も終わってないし、むしろ何もしてないので
変なまとめにならないようにしたいのだけれど、

3.11のことを忘れないように、というよりは
3.11があったことで見えてきた、ものすごく当たり前のたくさんのことを忘れないようにしたい
私たちはそれでも見逃してきていたし、気付かなかった
今でも見えにくいところにあって
そのことに気付いたり、見ようとするのを助けたりできたらと思う
問題が大きすぎて見えにくくなってしまったとしても
それは個人が個人を見ようとしたり、思ったりすることで
何の特別でもない普通のことなんだってわかる
そこまでできて、やっと何があったのかを1人の頭の中で考えることができるんじゃないだろうか

それでは、またこれからも瀬尾と活動を続けていきます
何かしらの形で伝え続けていきたいと思います

読んで下さった方、ありがとうございました

 

 9.30(10.30)