2011.9.2(2011.10.2 komoriharuka)

仙台の早朝
仙台駅につくと、いつものとこについたなーって
そっから知り合いのお宅に泊めさせてもらう
しばらく休んで
夜、2人でごはんをつくる
100円ローソンでジャガイモ、ケチャップ、玉子、もやし、ニラ、豚肉、ご飯パックを買う
料理をする、2人で晩ご飯
震災当時の映像や、福島のお医者さんのドキュメンタリー番組をyoutubeで見る
当日の映像はたくさん見ていた
けど久しぶりにみて、あの町はこんなことになってたのかとか
もう一回想像してみたりする
想像するのは、あんまり意味がないような気もする
でも自然と想像してしまっているし
震災直後にテレビで映像を見ていた時も、想像するしかなくて
4月来た時にその想像力がどれだけ小さなものだったか知ったことを思い出す
何も見てなかったし、何も分かってなかった
来たからといって分かったわけじゃないけど、
それ以上に映像がそぎ落としているものとか
報道が伝えきれていないものとか
目の前で見るってことがどんだけ違うかとか
想像力は何も補っていないというか、何のために働いたイメージだったんだろうかとか

この日に見た映像は、私たちが知ってる町、またはまだいったことのない町ということだけははっきりしていて、
タイトルに書かれた地名によって見る映像の見方も変わっていた
クリックする映像も違った選択をしていたと思う
津波の早さとか、家の流され方とかの細部を見てたし
今は流されてない建物が、まだ数十分前にはあってたくさん人が歩いている様子とか

それで見た気にはならないし、わたしたちが見たのは4月頭からのその町で
その間の時間はわからない
それは想像しても仕方がなくて
そこにいる人に会うことだったり、その町に何度も訪れることで
3月11日に起こった事をやっと知ることができるのだと思う
もっともっと昔からのその町のことも、これからの町のことも知らないと
何もわかんないと思う

私が持っている手段も映像で、誰が見るために撮っているかっていうと
おそらくここに住んでいない人に伝えるためであると思う
震災当日のこととかそれからのことを想像させるためのものじゃなくて
その町が元々そこにあって、人が住んでて、今でもずっとその町はそこにあることとか
そもそもの姿に想像が自然と働くものを作りたいと思った

 

 9.2(10.2)