2011.9.10

今日は小森の友人Sさんも同行。
朝早く仙台を出て、石巻へ向かう。
もう結構な回数通って見慣れた道を行く。
石巻の小学校でアーティストのEさんが参加する子供祭りがあると聞いて、Eさんに会いにいく。

小学校につくとEさんの運転する大きな黄色いバスが校庭に停まっていた。
東北で会えるなんて嬉しいね。
Eさんは私達の顔を見ると嬉しそうに声をかけてくれた。

東北に来て、こちらで継続的に活動をしているアーティストはあまりいないという。
学校にいても、学生の意識の中からこんなに大きな出来事が消えて来ているのを感じる。私はアーティストならもっと現場を見て思考をして、伝えるべきものを形にしていくべきなんじゃないかと思う。自分の体と思考を惜しみなく削って、伝えようとしなくちゃいけないと思う。とにかくそういう仕事だと思う。
それを実際にどうしたらいいかは、私にはまだ全然わからないから偉そうなことも言えないけど、まず忘れないでよく見ることを続けなくちゃ駄目だと思う。
(伝えるところまで至っていないので自分のことを考えると不甲斐なさすぎて落ち込むんだけど)
Eさんは忙しい仕事の合間を縫ってとにかく東北に通って来ている。
一週間で何千キロと言う距離をバスで走って移動していると言う。
それでも体調を崩したりしないんだから、プロだなあと思う。

喉が渇いて自販機を探していたら、写真洗浄をやっているスタジオを見つける。
とても整理された作業場でお話を伺う。
ここでも山元町の写真洗浄が気になるとのこと。
みんながこぞって写真をデータ化することに躍起になっているけど、それはどの程度必要なことなんだろう?とも思ったりする。
写真の図像が欲しいことと、写真そのものが欲しいことでは随分と内容が違うように思う。
山元町では返却のためのインデックスとしてデータ化をしていると言っていたけど、今後写真の原本自体は痛んで見られない状態になってしまうかもしれないから
、残るのはデータかもしれない。だからデータ化するのには意味があると思う。けど、それは写真を持つことと違う。なんともうまくいえないけど、そうやって形を変えた写真に時間が経過してからもう一度出会って、そこに価値を見いだせるのだろうか。写真にも実体が必要な気がする。かと言ってそれを新しい紙に印刷したら良いのものなのか、なんなのか、、。
自分が津波に遭った訳ではないので、何を考えても想像でしかないため色々なことを考えてしまう。
でも、繰り返しになるけど、こうやって写真に向き合いつづけている方達をとてもすごいと思う。

作業場から出たら石巻の御用聞きだというKさんという方に出会う。
ちょうど石巻の津波被害に関する写真集を入荷したということで、ここに持って来たとのこと。軽バンにはその他にも他の人からの預かり品だと言う石巻のグッズがのせてあって、代わりに販売をしていると言う。
かわいかったので亀の手ぬぐいを買う。石巻に来ると亀に縁があるなあと思う。
Kさんは震災後、地元のおじさん達でグループを作り車をシェアしながら、石巻の御用聞きとして活動しているとのこと。
今後は石巻の観光を促進するために、訪れた人を案内するツアーガイドグループとして活動して行くとのこと。
地元の人に案内してもらうと言うのは、とてもいい。
旅で来るとどうしても地元のコミュニティに触れないように動いてしまうけど、人と話すことでもっともっと分かることがある。

学校に戻ると小学生達が鼓笛隊となり、隊列を組んで移動しながら演奏をしている。
色んな表情で演奏をしていた。

気づけばお祭りも終わりにさしかかっていて、大人達はてきぱきと片付けをはじめていた。私達は駄菓子を配っていたテントの片付けに参加する。
片付けが終わると、スタッフの中のひとりの方が声をかけて来た。Mさんという。
Mさんは石巻の隣の東松島出身で、この後時間があれば東松島の被害の大きい所を案内してくれると言う。
私達はついて行くことにした。

Mさんはとある東松島で活動するNPOに半分所属する形で、住民とそのNPOの活動を繋げる役割をしていると言う。
NPOの何人かも駄菓子を配るスタッフとして来ていたので、一緒に東松島に向かう。年齢層はばらばらだけどなんだか仲が良さそうだった。

東松島のとある地区の小学校に着く。
ここは避難所になっていたのだが、5メートル近い津波が来たために、体育館では避難して来た人がたくさん亡くなったと言う。

校庭に自分たちの車を置いてMさんの車に乗せてもらい、地区を一周する。
車で走るのもやっとな状態の、ぼこぼこと穴の開いた車道を走る。
一帯は津波が引いたそのままのようになっていて、街路樹に布団がひっかかっていたり、流された家の土台の上に日用品がそのまま転がっていたりする。時間から取り残されたみたいなその場所は、人影もない。
Mさんは東松島での辛い震災の話を、静かな声でため息をつきながら話しつづけている。

地盤沈下で田んぼがとてつもなく大きな水たまりになっていて、そのあいだにかろうじて残った車道を慎重に走る。外も薄暗くなって来た。
薄紫色の空と、それを飲み込むみたいに写し取る巨大な水たまりは、なんだかとても怖かった。
途中、被害の大きかった中学校(まだ全然片付けられていない)と、Mさんのご実家にたち寄る。ご実家にも波が来ていて一階は修理中、電気は通っているが家全体が斜めになってしまいとても住めないとのことで、Mさんは仮設に暮らしている。

小学校に戻る。
小学校にはMさんの所属しているNPOが拠点を作っているということで、寄ってみることになる。電気の通らない場所のある小学校の校舎内はとても暗い。
手探りで階段を上がると、電気のついた教室がある。
そこがそのNPOの拠点らしい。
入ってみると教室の中に段ボールで作られた家がいくつもあり、その中から年齢もまちまちな男女達が出て来た。ようこそ、と笑いかけてくるがこちらに近寄ろうとしなかった。
Mさんが代表を呼ぶと言い、教室内で一番大きい、城の形の段ボールハウスの扉をこんこんと叩くと、中から30代くらいの男性が出て来た。
彼は丁寧にこのNPOの活動について話してくれた。けど、何をしたいのかはいまいちわからなかった。具体的には炊き出しや奇術ショーや仮設住宅でのワークショップを行っているらしい。

その後、Mさんが仮設で物資の配給があるからそれを見に来ないかと誘ってくれたので、またしてもついて行くことにした。
仮設につくと、やっぱり会場は神社だったので車を降りて移動しようと誘われる。
神社まで連れて行かれたらなんだかまずいような気がして来たので、私達は帰ることにした。
おそらく、一連の流れは、何かの勧誘だったんだと思う。

仙台に向かう途中で、仙台市内に実家がある友人から連絡があり、ご飯を食べて行かないかと誘ってもらう。
車内は先ほどまでの流れで少し変な感じになっていたので、とても助かった。

友人宅は静かな住宅街にある。
似たような景色を、大学生の時に暮らしていた茨城でも見たことがある。似ている町は日本中にあるのかもしれない。

友人宅ではご両親とお兄さんと白い猫もいて、明るくて楽しい食卓があって、とてもほっとした。
お父さんは南三陸町の出身で、今回の津波でご実家が流されている。
津波からしばらく経ってお父さんのご両親を迎えに行った時に写したという写真を見せてくれた。ご実家は土台だけを残してきれいに流されており、上の部分はどこにあるのかと探したら、何キロも離れた湾の反対側にそのまま流されていたという。
お父さんが、思わずこのまま住めそうだなあって思っちゃったよ、と言って、みんなで笑った。
友人が、お父さん笑えないよそれ、と言うと、お父さんが、そうだよなあでもそう思ったんだよ、と呟いた。

きっとたくさんの食卓でこの大きな震災のことが話されている。
いろいろな言葉で、いろいろな感情で、いろいろな状況を抱えて、それについて話ている。
会話はそれが話されている背景や条件を踏まえないで聞くと、誤読されてしまう可能性が大いにあるけど、その場をよく見たうえで会話をよく聞くことはとても大事なことだと思う。
会話は、身近なひとに思っていることを伝える、その基本的な手段だと思う。
つまり、すでに人に伝えるために選ばれた情報ということだ。それはただ景色を見るのともニュースや新聞を見るのとも全く違う。

おいしいケーキまでいただいて、家族総出で見送られながら仙台に戻る。
友人宅に行けて本当に良かった。ありがたかった。
今日はなんだかいろいろあって疲れたのだが、うまく眠れなかったのでちまちまと絵を描きながら、いつの間にか寝た。

 

 9.10(10.10)

 

higashimatsushima

 

 

東松島に初めて行きました。夕暮れのなか地盤沈下した田んぼの間を車で走りました。道の両側が大きな湖みたいになっていて、見たことのない景色でした。町 の色々なところに池のような場所があって、そこは住宅だったとのこと。元の景色は全く想像出来なかった。そこにはただ圧倒される景色がありました

初めて訪れた私達はその景色をただじっと見ることしかできず、そこから遡ることも進むこともできませんでした。その景色を、新しい景色として受け入れていいのかも、わかりませんでした。

twitter@seonatsumi