2011.9.11(2011.10.11 seonatsumi)

今日は津波から半年目の日。
以前から小森と、半年目にどこにいようかと話していた。

陸前高田に行きたいと言ったら、小森も同意してくれた。
陸前高田は友人の親戚のKさんが住んでいるので4月に訪ねて以来、何度か訪れている。

訪ねてみて、その町を見て、すごく寂しいきもちになったのを覚えている。
町の中心部は見渡す限り建物が流されていた。ぽつぽつと残る大型施設も屋上まで波がかぶった形跡がある。
残った建物の土台の並び方を見ていると、ここにたくさんの建物があって、人が暮らしていたことがわかる。
ここにいたら逃げ切れなかっただろうな、と思う。

Kさんは町の中心部から少し走った所に住んでいる。
果樹園や田んぼをやっている人が多い地域だそうだ。
津波はKさんの家の庭まで入り込んで来たが、ぎりぎりで難を逃れたという。
でも、Kさんのお家から海側の地域はほとんどすべてのものが流されていた。
住宅、田んぼ、果樹園、駅、商店、あったものは全て流されていた。
お向かいさんもお家が半壊しており、おばあちゃんがひとりで片付けものをしていた。
津波が来る前までは見えなかったと言う海が、Kさんの家からよく見える。

津波は怖い怖い、高田の町は全てを失ってしまったのよ。
Kさんはため息をつきながら言った。
私が生きている間にまた町が戻ってくることがあるのかねえ、
10年、20年、何年かかるんだろう。
私は家も残って家族も生きているからあんまり口に出して言えないけれど、
友達も親戚も思い出のある場所もたくさんなくしたの。
胸の中には悲しみがたくさんつまっているのよ。

なぜ自分が生き残ったんだろう、と言う言葉を何度か聞いた。
生きているか亡くなるか、実際にはその瞬間にどこにいたかどう動いたかの差でしかないと思う。生きるべくして、亡くなるべくして、という死生観は私にはまだよくわからない。多分その瞬間に、大きな差はないんだと思う。
ただ、生きている人は生きているし、亡くなった人は亡くなった。
そこには大きな差がある。
生きている人は、その後も生きていかなくちゃならない。
自分が長い間暮らして来た町を失って、でもそこで生きていくことは、今まで持ったこともない大きさの悲しみを体の中に埋め込まれた状態で暮らすような、そういうことなんだろうかと思う。

別れ際Kさんは、こんな町になっちゃったけど、また来てね、と言った。

昨晩調べたけど、陸前高田では大きな慰霊祭はないようだった。
というよりも岩手県はこの日選挙があって、それに忙しいみたいだった。
なんでこの日に選挙?と思ったけど、多分この日が良かったんだろうと思う。

国道45号線を通って、陸前高田に向かう。
仙台からは5時間くらいかかる。
45号線は宮城岩手の沿岸部をずっと走る道路で、東松島、石巻、南三陸町、気仙沼、陸前高田、、を通る。
途中南三陸町のコンビニに立ち寄ると仏花が売っていて、黒い服を来た人がたくさんいた。合同慰霊祭が行われるらしい。
津波で建物が流された薄茶色の町を、黒い喪服の人達が一列に歩いていく。

陸前高田まで少し急ぐ。

2時頃陸前高田について、町を一周してみたけれど、特に大きな慰霊祭の様子も無い。
4月から比べたらかなり片付き始めている町に、いつも通り復旧のトラックや自家用車が行き来をしていた。
人々も、特に変わった様子はなかった。

陸前高田の町が見渡せる橋に立って、景色を見る。
建物が流されてはるか遠くまで一望出来る。大きく被害を受けた町の中心部には、ほとんど人がいなかった。

建物が流され、凹凸が無くなった町を見ながら、私は平面と立体のことを考えていた。
人がいない場所は平面なように思う。今この町はどこまでも平面に見える。
そして、そこに人が暮らしをはじめたとき、そこは立体に起き上がる。
何もない所を人が歩いている。それだけで、景色が立ち上がるように思う。
ここで考えるのもどうなんだろうと思いながら、
私は普段描いている絵のことを考える。
体で経験したことを絵にする、または写真にすると言うことは立体を平面に収める作業なんじゃないか。
アラーキーが写真は死だと言っていたけど、そういうことかもしれない、とか。
絵を描くこと写真を撮ること、私の興味のあるメディアは平面だ。
平面を立体に起こすことは、見る人に、その人の方法で、やってほしい。
それは生きさせることを委ねているのかも、とか思った。
話がそれた。

2時46分は町の中心部で海を見て過ごした。
サイレンも鳴らなくて、静かだった。
やっぱり車はいつも通り走っていて、仕事をする人は仕事を続けていた。
私達と同じように海を見ている人もぽつぽついたけど、その時間が過ぎるとすぐに戻っていった。

Kさんのお家に寄ってみる。
急だからいないかと思ったけど、ちょうど出かける前で家にいた。
あんたたちはいつも突然くるんだから、と言って笑って迎えてくれた。

Kさんのお家で、今年成ったというりんごと梨をいただく。
とてもおいしい。
これを買って来たのよ、とKさんは一冊の写真集を見せてくれた。
それは陸前高田で最近発売されたという写真集で、津波被害の写真もあるけど、津波の前のきれいな町がたくさん載っていた。
いろんなの出てるけどね、私達にはいま、こういうのが必要なのよ。
きれいだった町を思い出して、あーこれを取り戻したいって、そう思うことが大変なの。
今の町並みを見ても、ここに何があったのかはうまく思い出せないとKさんは言う。そう言う自分がとても寂しいと。
写真集には私が実際には見たことがないけど、とてもきれいな町並みが写っていた。中心部にはにぎやかな商店街もあった。
でも今はなかった。
人にとって必要な景色、というのがあるんだと思う。
ただきれいとか便利とか、そう言うことじゃなくて、切実に必要な景色がある。
それは普段目にしていてもくっきりと覚えているようなものではなく、形が変わった時にやっと気づくようなもので、でもそれは自分の体の中や生活の中に組み込まれているものなのではと思う。

おばちゃんは選挙の手伝いがあるから、もう行かなくちゃと言った。
たくさんりんごと梨をいただいて帰る。

陸前高田のボランティアセンターに立ち寄る。
ここも何度か訪ねていて、スタッフのNさんと言う方にいつもお話を伺っていた。
Nさんは陸前高田の出身で、とてもきさくでやさしいおじさんだ。
周りの若いスタッフにもとても信頼されている。
Nさんは私達を快く迎えてくださって、いつもたくさん話をしてくれた。
陸前高田は被災が大きすぎて、周りのボランティアセンターが復興に向かい始めているのに対して、まだそのステップまで進めないでいるという。
でも、このボランティアセンターは雰囲気が明るくて、よく仕事がまわっていると言う印象を受ける。
まだまだやることがあるし、まだまだ人の協力が必要なんです。
忘れられてしまわないように、思い出して、また行きたいと思ってもらえるように、繋げていかなきゃならないんだ。

NさんもKさんと同じ写真集を取り出して、懐かしそうに目を細めていた。
こんな様子、想像つかないでしょ?
本当に、想像では何もわからなかった。
この写真を、そしてこの写真を見つめる人達のことを覚えていたいなと思った。

Nさんのおすすめの定食屋でご飯を食べる。
プレハブで出来たそのお店は、元スナックと言う感じで、明るいママが切り盛りしていた。
生姜焼き定食を食べる。おいしい。
地元の人達が震災半年目の各地のニュースを見ていて、
ああ、今日で半年だったんだなあと呟いていた。
半年目をどう過ごすかを考えることは、そこに暮らす人かそうでない人かによって全然違うんだと思う。
そこに暮らしていない人は、そう言った節目がなければ、その出来事自体をどうしても忘れてしまうし遠ざかっていってしまう。
でも、そこに暮らしている人にとっては津波の後の、ある一日に変わりがないんだろうと思う。
私は、忘れないようにしたいと思った。

辺りもまっ暗になったけど、でもなんだか疲れてはいなかったので、
そのまま青森まで移動することにした。
ガス欠になりそうになったりたぬきを轢きそうになりながらも、なんとかついた。
八戸のまんが喫茶で、スロットで盛り上がるギャルの声を聞きながら、寝た。

 

 9.11(10.11)

 

rikutaka

 

陸前高田にむかっています。岩手はきょうは選挙です。

陸前高田市にいます。津波がかぶった街の中心部はとても静かです。曇っていて、草が生い茂っていて、虫がないていて、なぜだが今が何時なのかよくわからないような、そんな景色です。

陸前高田のおばちゃんのおうちで、おばちゃんの作ったりんごと梨を食べました。津波がかぶった田んぼには、きれいに稲穂が実りはじめていました。 いまから青森に行きます。

今日は陸前高田にいて、14:46を高田の海岸で迎えました。ほとんどの建物が根こそぎ無くなり、地盤沈下して海岸線も変わってしまった市街地の海岸に は、海を見ている人がぽつぽつと居ました。陸前高田では大きな慰霊祭やサイレンの音もなく、半年目のその時はそっと通り過ぎていきました。

ぎりぎりで津波が引いていったというおばちゃんのお家で今年なった梨をいただきました。おばちゃんは高田の人が作ったという写真集を見せてくれながら、半 年前までの町のことを話してくれた。その写真集は津波の前の高田の写真がたくさん載っていて、私達に必要なのはこういうのなんだと言いました。

たくさん津波の被害の写真が載ってる写真集が出ているけど、私達はそれよりきれいだった町をもう一度見たいんだと言いました。今は悲しいものより、あの時 の町が見たい。この町にいる人は同じものを失ったから、それがあったってことを忘れないでいれば、またそれを取り戻そうって助け合えるでしょ。

半年が経って、散らばった家や商店やアスファルトや木々なども片付けられて来て、それは新しい景色を作り始めているようにも見えます。でも、おばちゃんにとっていま必要なのは、半年前まであった町なのです。悲しみはあまりに大きいと、おばちゃんは言いました。
陸前高田の14:46は淡々と、そっと過ぎていったように感じました。道路を走る車は停まることもなく、作業をしている重機は作業を続け、おばちゃんは部 屋で休んでいて、受験生のお孫さんはテストの勉強をしていました。忘れたのではなくて、そう過ごすことが必要だったんじゃないかと感じました。

twitter@seonatsumi