2011.9.14(2011.10.14 seonatsumi)
久慈市のコンビニで目覚める。
野田村を目指して沿岸沿いの国道を南下する。
ここは4月にも通ったことがある道で、走っていると、この道沿いの集落のほとんどに津波が来ているのがわかった。
報道で見たことのない地名がたくさんあって、地図を見ればすぐ分かるはずなんだけど、今回の大津波が東北の沿岸全てに訪れていることを目で知った。
そして名前の知らないそれらの場所は、外の人ではなくて地元の、おそらくそこに住んでいた人達が協力しあって、壊れた家などを黙々と片付けていた。
今はほとんどが片付けられていて、そこに何があったかは、もうよくわからなかった。
道に迷って細い路地に入ってしまったら、小さな港に出た。
小袖海岸というらしい。
そこには海女さんの小屋と書いてある小さなプレハブの建物があって、前を通ったら声をかけられて、あがっていらっしゃいと言われた。
中には自分の母親と同じくらいの年齢の女性が3人いて、そのうち二人は海女さん、ひとりは漁師さんだった。
ここは観光の一環として海女さんが漁をしている姿を見ることが出来る場所で、海女さん達は季節限定でここで働いているという。
最近やっとだけどこの小屋が出来たのよ、でもここまでよく復活したと思うわと言って、まだ真新しい震災時の写真を見せてくれた。
この港にも例外なく津波は押し寄せていて、何台もあった船も海女さんの小屋もみんな流されてしまったという。
海女さん達は、私達がビデオカメラを持っているのを見ると、いまのこの港の様子をどんどん撮って行ってねと言って、港の奥の漁師さん達の所に連れて行ってくれた。
小さな舟に漁師さん達が10人くらい乗っていて、支援でもらったという舟の銭湯部分の修理をしていた。
白い舟にベニヤ板をその場で切りながらあわせて行って、インパクトドライバーでどんどんとめて行く。
私は普段学校でそれらの道具を使ってものを作ったりもするけど、こんなにも実践でそれらが使われているのをはじめてみたような気がした。どんどんと、舟が使えるようになって行く。
漁師さん達は私達に少しびっくりしながらも、ぽつぽつ話をしてくれた。
舟が全部無くなってしまったこと、網もないから漁は本当に危機に陥っていると言うこと、それでもここで働きたいし働かなければならないと言うこと。
本当に悲しいんだよ、と言った後に、でもまた今度来たら舟に乗せてあげるよと言った。その時にはもっとよくなってるから。
漁師さん達は一通りのベニヤ板を着け終わると、みんなで軽トラに乗ってどこかに戻って行った。
海女さんの小屋に戻る。
表に貼ってあったポスターが色あせているのを見たので、これ描きましょうかと言ったら喜んでくれた。
私は車に絵の具やらクレヨンやらを取りに行った。
東北に来て初めてこれらをちゃんと使うなあと思った。
私は海女さんの実演の概要を書いたポスターを、小森はアイス販売中のポスターを描いた。
10時30分から海女さん達が実演をしてくれると言った。
ウェットスーツに着替えるからちょっと待ってて、と言っててきぱきと着替えをはじめる。海女の衣装も流されてしまったため、自前のウェットスーツを着なくてはならないの、と言っていた。
着替えの間も二人はたくさんおしゃべりをしていて、なんだかそれは高校生が体育着に着替えているみたいな、そんな雰囲気だった。
小屋から出ると、ちょうど近所に帰省中だと言う子連れの女の人がいた。
たまたま通りがかったようだが、彼女達も実演を見るという。
海女さん達は、じゃあ行きますといって、そっと海に入って行った。
体1つで海に入って、何かを探している。
海の上から見ている私達には何も分からないけれど、海女さん達には海の底にいるウニや粒貝がたくさん見えているらしい。
正確にもぐって、あがってくる時には手に何かを持っている。
何気ない動きに見えるけど、それは真似出来ることじゃないんだろうなと思う。
海女は命がけの仕事だし、プロだから必ず漁を成功させなくちゃならない。
大変でも、海女にとって海に入れないことほど寂しいことはないのよ、と言っていたのを思い出す。
海女さんの息づかいが時々聞こえる。
息を荒げながら、さっき小屋にいた時より険しい顔をしている。
30分ほどで海女さんは海からあがってきた。
あがってきたら、やさしいお母さんの表情に戻った。
ウェットスーツの胸の部分をあけると、大量のウニやツブガイが出てきて、その場でさばいて食べさせてくれた。
小さな子供もウニをぺろりと食べていて、なんとなくこのこは強くなるだろうなあとか思った。
お昼までごちそうになって、いつの間にか夕方になった。
お昼ご飯の残りをどうしようかと聞いてみると、かもめにやんなさい、と言った。
私達が外に出ると、かもめはすぐにたくさん集まった。
海女さん達は慣れた様子でかもめに餌をやる。
ここの暮らしはかもめも一緒にいて成立しているんだなあと思う。
動物愛護とかそう言うのはよくわからないけど、普通にいっしょに暮らしている姿はなんだか良いなと思った。
海女さん達に御礼を言って野田村のボランティアセンターに向かう。
着いた時にはもうほとんど夜で、突然伺ったのにも関わらず二人のスタッフさんが対応してくれた。
スタッフさんはお二方とも物静かな雰囲気で、あの頃のことを思い出すだけで涙が出ちゃうな、とぽつりと呟いたあと、ゆっくり話を始めてくれた。
野田村は村の中心昨日のある場所に津波がきた最北の地。
この村にはもう三度の大津波が来たことがあって、だから津波が恐ろしいものと言う認識は強かった。
だから警報がくればみんな高台にあがったため、村の中で村人の死者自体は随分と少なかったという。
スタッフのKさんは、
もちろん逃げ切れなかった人もいます。気づかなかったり、体が悪かったり、仕事場が心配だたり、たまたまそのとき車で走っていたり、そういう色んな理由で。
でも大津波が来るときは来るんです。
そこでも人がなるべく亡くならないようにするには、そのときその人が自分の判断をするしかない。
ここまで来たら安全か、でも地鳴りがすごいならもっと逃げようとか、そう言う判断をしていかなきゃならないんです。と言った。
三度目の大津波、回数を重ねるたびに死者の数は各段に減っている。
一回目は村民の半分以上が亡くなったが、今回は数十人だったという。
津波の来る場所に繰り返し暮らす理由はそれぞれあるだろうけれど、そこに住むのなら、その場所のもつ色んな面を受け入れなくてはならない。
それはきっと多くの人がそうしていることで、都会に住めばうるさいし空気は良くない、山に住めば土砂崩れがあるかもしれない、海に住めば津波が来るかもしれない。
大切なのは、それをよく知った上でそこにいることを選んでいるかどうかだと思う。
野田村のボランティアセンターでは黄色いジャンパーを来て活動していた。
ボランティアの存在自体に慣れていない地元の方々も多く、最初はニーズもあがらなかったが、黄色いジャンパーの人達として、次第に受け入れられて行った。
津波が来た薄茶色の町並みに、蛍光黄色のジャンバーの人達が活動しているのを思い浮かべる。
Kさんは毎日必死だったですね、と話す。
ジャンバーを洗いに隣の久慈市のコインランドリーまで通ってたんですけど、それも少ないお金をかき集めて、それで行ってたんですけど、
久慈市に入ったとたんそこはいつも通りのなんとも変わりのない世界だったんですね。
それを見た時、ああ自分はみすぼらしかっこで、なんと恥ずかしいんだろうと思った。久慈市の人はみんないつも通りのきれいなかっこをしていて、天国かと思った。天国に踏み入る格好じゃないと、そこではっとした。
津波の被害は本当に1か0で、水が来てしまったらそこはもう大変な被災を追ってしまうし、1メートル先で水が来なければ何もかも普通なのだ。
東京にいたとき、同じ日本で大災害が起きているのになんでここはこんなに普通なんだろうとおもったけれど、それは地図をどんどんと拡大して行っても同じで、その境目は多分目に見える形で線引き出来てしまう。
隣に住んでいても波が来なかった人は、いつも通りを継続出来る。
それは決して悪いことではなくって、この災害がそう言うものだと言うことだと思う。
だから、忘れてしまう時には忘れてしまう。
お隣さんだったひとがすごく苦しんでいることや、町の機能が普段通りでないことや、また津波が来た時に自分の家まで来るかもしれないと言うこと。
想像力がいると思う。
東京から初めて東北に来た時、自分の想像力の及ばなさにすごく落ち込んだけれど、それでも、想像することを続けなくてはならない。
自分の想像力なんか本当に些細なものだと言う認識を持って、その上で今近隣の人が置かれている状況や未来の災害のことを想像し続けなくてはならない。
それはきっと、被災をしてしまったひとにも同様のことが言えると思う。
野田村は死者行方不明者が少なかったことで遺体捜索が早期で終わったために、重機を入れての建物の解体をはじめるのが早かった。
壊れてしまった町並みをまず更地に戻して、そしてまたそこに暮らそうとしている。
そこになぜ暮らすのか、津波が必ず来るそこに住むこと自体は過ちでは決してないと思う。そこに暮らす上で、引き受けるものを常に思うことが出来れば、そこでの暮らしは幸せなものなんじゃないかと思う。
御礼を言って、また古墳の湯に戻る。
宴会場でご飯を食べていると地元の方達に声をかけられて、そこから夜中まで一緒に飲んだ。
そこで食べたサンマは久慈でさっきあがったものだと言うことで、今まで食べたどの魚よりもおいしかった。
明日は久慈でお祭りがあるので、また戻ってきなさいと言われて、じゃあそうしようと、その場で予定を決めた。
その日は古墳の湯の仮眠室で毛布にくるまって眠った。
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今日は道に迷って小袖海岸にたどり着いて、2人の海女さんと出会いました。浜は穏やかに見えましたが、津波でほとんどの舟が流されたとのこと。海女さんのいた小屋も仮設でした。漁師さん達は、北海道からもらってきたという舟をベニヤ板をつぎはぎして直していました。
海女さんは海にもぐってウニをとって来て、私達に食べさせてくれました。体ひとつで食べ物をとるその仕事は、なんというか、とても自然な事に思えました。 私が普段している雑貨屋さんのアルバイトより、すごく当たり前のものに思えた。食べ物がとれることは嬉しい、美味しいことは嬉しい。
以前から浜の開発で採れるものは減ってきてはいたけれど、津波で更に採れるものがなくなった。海女は海に入らなくては寂しくなる。海に入って美味しいものを採れないことはとても寂しくなることなのよ。
その後、野田村へ。野田村は町の中心部の機能が失われた市町村のなかで最北の場所。毎年の避難訓練で高台へ逃げる練習をしていたためか、亡くなった方は他 の市町村と比べると少ない。津波のあと二週間で行方不明者が全員見つかったため、すぐに重機による作業が入った。その為片付けが早かったとのこと
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