2011.9.15(2011.10.15 seonatsumi)

古墳の湯の仮眠室で目覚める。
しばらく車中泊だったのもあって、なんだかよく寝てしまう。
時々目を覚ますと朝風呂から出たお兄さんが何かの受験勉強をしていた。
このひと毎日いるんだろうなあ、とか思いながらなんとか目覚める。

宮古市へ向かう。
宮古に最初に行ったのも4月のことで、その時は半日だけどボランティアに参加した。
避難所のお手伝いと言う形で、そこに届いた物資の仕分けをした。
その時一緒に活動したのは宮古市内の高校生だったと思う。
高校生達は、いやあどっちにしろ春休みですからね、といってよく働いていた。毎日自転車でボランティアに通っているのは、本当にえらいなあと思う。

宮古のボランティアセンターに着くと、4月に受付をしてくださったOさんがインタビューに対応してくれた。
そしてなんと私達を覚えていてくれた。
毎日たくさんの人に対応していて、一瞬しか話していない私達を覚えていてくれたとは。
来てもらうって、すごく嬉しいことなんですよ、とOさんは言う。
そうだよなあ、と思う。
自分の町に来てくれたら嬉しい。
すごく基本的なことだけど、たくさんの人を迎え入れる状況がずっといたら、忘れてしまいそうになると思う。
嬉しいと言われたことで、自分も混乱している中で東北を訪れた気持ちを救われた人は、とても多いんじゃないかと思う。
私はとても救われたのを覚えている。

宮古は岩手の北部に位置することもあり、被害の大きさの割にボランティアが少なかったように思う。
この広範囲の震災では、都市部からのアクセスのしやすさで随分と状況が変わってしまったのを感じる。
それはいいことか悪いことか一概に判断することは出来ないと思う。
外から人がたくさん入った場所にはやはりその人達の意思があるので、その町なりのコミュニティは少し変形する訳だし、将来的な展望にも変化がある。
外から人があまり入らなければ、その町がもともと持っていた人のつながりを強くしながら活動出来る部分もあるけれど、より外との関係が遠くなったりもするかもしれない。
いいことか悪いことかは難しいけれど、それも含めてその町なんだろうと思う。
元からもっていた性質とも言える気がする。

田老へ移動する。
田老地区は何度も大津波で町が無くなっている場所で、世界一と言われる堤防があった場所だ。
数年前の津波はその堤防で防げたけれども、今回は堤防が壊れて町の大半が流されてしまった。
ここも4月に一度訪れていて、川の土手から町を見たら見渡す限りが灰色の平らな景色になっていた。
人はほとんど見かけず、おじいさんがひとり、私達と同じようにそこから町を見下ろしていた。寂しいとも、悲しいとも読み取れない表情で、長い間そうしていたのを覚えている。

田老に着くと、少し様子が変わっていた。
国道沿いにはプレハブの商店が出来ていたり、壊れて屋根もないガソリンスタンド
は営業を開始していた。
散歩中らしき人が歩いていたり、漁協の集まりをやっていたり、花壇に花が咲いていたり、半壊のお家に工事業者が入っていたりもした。
なんだろう、町が出来る最初の段階みたいな、そういう状態を見ている感じがした。
飲むヨーグルト発売中ののぼりが立っていたので、商店に入ってみる。
店内は狭いけれど売っているものは地方の小売店みたいな感じで、魚、肉、野菜、飲み物、お菓子、生活雑貨など一通り並んでいる。
価格は少し高いけれど、そんなに驚く値段ではない。
地元の人が日常的に利用するお店なんだと思う。
飲むヨーグルトを買う。
店主のおじちゃんは明るく、ごく普通に、どうもありがとうねー、と言って送ってくれた。

4月と同じ場所から景色を見た。
川底に溜まっていた家屋の破片や車などはきれいに片付けられていた。
やっぱり建物が流されて寂しい景色に変わりはないけど、人の往来があるだけで、ここが町だと言うことがよくわかった。
ひとが目的を持って往来する場所の交点みたいなものが、
町なんじゃないかと思った。

車に戻ろうと歩いていると、おばあちゃんがバスを待っていた。
おばあちゃんは数キロ先の仮設住宅に行く循環バスを待っているという。
私達もそこに行く予定だったので一緒に行くことにした。
おばあちゃんは町の山側の方を指差して、あれがわたしのお家なのよ、と言った。
黄色くてかわいらしいお家。
周りの建物はほぼ全壊しているけれど、おばあちゃんのお家は一階の天井まで水が来ただけで済んだという。
いま、お家は改装工事をしているという。
ここにまた住むんだなあと思う。

田老地区には、津波の怖さを伝える小説も絵本もあって、それはある程度有名なものだと思う。
インターネットで少し調べれば出てくるようなものだ。
でも、そこで知る恐怖と、日常的に住んでいる自分の町が直接的に繋がって考えられるかは別の話なのかもしれない。
何かに置き換わって出力されたものを信じることは、とても難しい。

もうひとつ思うのは、防波堤のことだ。
田老には立派な防波堤があって、一度津波を押さえ込むのに成功していると言う事実。それが、人間が作ったもので自然を押さえ込むことが出来るという思い込みを作ったように思う。
防波堤があれば安心ですよ、なんて誰がどの口で言えるんだろうと思う。
人間の作るものは、人間の想像力の及ぶ範囲のものからしか、人間を守ってはくれない。
大げさな言い方かもしれないけど、それはそう言うものだと思う。
防波堤を作ることは、人の暮らしと自然の間にしきりを作るようなことになりかねない。
見えないものは見えないものとして、人は見なくなる。
そういうユートピア的な考え方でそこに暮らすのはとても危険なことだと思う。

島越と平井賀に移動する。
ここは4月に宮古でであったおばあさんに教えてもらって初めて知った場所だ。
おばあさんのご実家が島越にあったという。
そこは小さな漁村で、100世帯あまりが暮らしていた。
避難所に指定されていた公民館に津波が来たため、たくさんの人が亡くなった。
おばあさんのご両親もそこで亡くなったんじゃないかと思う、と言っていた。
私達は報道で聞いたことのない地名で、そのようなことが起きていることを知ってすごく驚いたのを覚えている。
おばあさんは、
私もお家が流されてしまってとてもつらいの。
だから、実家があった場所がそんなに大変になっている所を見に行くことは今は出来ないと思う。
あなた達、代わりに見てきてほしいわ。そしてよくカメラに撮ってちょうだい。
と言った。
私達は初めて津波被害のあった場所に来た時、カメラを出すことがすごくためらわれて、ずっと何も撮影をしていなかった。
おばあさんにそう言われて、伝えること、残すことは私達にできることなんだとやっと思えた。
やらなきゃと、とにかく思った。

4月の時点での島越はまだ遺体捜索も終わっていないような感じで、とりあえず道路は通れるけれど片付けられてはいないようだった。
沿岸沿いの電車の線路はぶつりと切れていて、周りにあっただろう建物はコンクリートの基礎すらもはがれかけていた。
山の方には数件残っているお家が見える。
中に人が住んでいるようだった。
声をかけると、
お店が無くなって少し不自由だけどね、でも大丈夫ですよ。ありがとう、と言われた。
道路も土砂崩れで寸断されていて、ガソリンもないから徒歩で行かなくてはならないという。
おばあちゃんは気丈に洗濯物をパンパンとのばして、干していた。

今日訪れた島越は、何も無くなっていた。
真新しい灰色の砂利が敷かれていて、ここにあったものとか、ひととか、これから出来るものとか、何も感じ取ることが出来なくなっている、と思った。
草原から町を切り開くことよりも、
町を壊して砂利を敷いて出来た更地は、なんだか生活からうんと遠いみたいに感じた。
でも、それも1つの段階なのかもしれない。
ここから町が出来て行くのかもしれない。

夕方から久慈市のお祭りへ
大きくて派手な山車を町内ごとに競い合う。
山車はいろんなテーマを持っていて、電動で競り上がってきたり煙が出たりと大変に凝っている。
芸大の学園祭でみる神輿よりもクオリティーが高い、、と思った。
お祭りで各町内会の代表が前に出てきて音頭をとって、節を歌ったりする。
お祭りを見る人達の表情はすごくいいなとおもう。
なんだろう、きらきらしている。
ひとつのものをよく見ている、それをみんなが同時にしている。

屋台でおいしいものをたくさん食べた。
どれもこれも地元のひとが作っている感じで、屋台自体の雰囲気も東京とは全く違った。
小森と、自分たちが育った場所について色々と話した。

また古墳の湯に戻る。
昨日描いたオーナーの似顔絵がカウンターに貼ってあって笑ってしまった。
少し休憩したら久慈港に行く。
イカ釣りの漁師さん達が海に出る所を見に行く。

 

 9.15(10.15)

 

tarou

 

 

日本一の防波堤があった田老地区は、想定を超える津波で沢山の家が流されました。緑色の草はらに建物の基礎がへばりついている。そのとても平面的な一帯に ポツポツと仮設の商店や花壇が出来ていて、ひとが往来していました。ひとが暮らし始めることは平面が立体になることに似ているかもしれない。

島越、平井賀へ。リアス鉄道の駅があったふたつの町はすっかりと片付られて真新しい砂利が敷き詰められていた。そこに町があったことは、私にはもうわかり ませんでした。ぶつりと切れた線路と空っぽの小さな駅舎を見てやっと、ここがどこかに繋がっていたことを考えることができるようでした。

真新しい砂利の、灰色の景色からは、そこにいたひとを想像するのはとても困難に感じました。何かを感じ取ることさえ、とても難しいのです。そこにまたひとが住むことがあるのだろうか。草はらをわけ行って人が暮らしを始めるよりも、それよりも暮らしから、遠いのです。

ここからちょっと最近考えてること。記憶の仕方について。私は何かを覚えるとき、あるシーンの図像とその内容を言葉で覚えます。ちょうど写真とテキストの ような感じ。だから、そのシーンの前後はすっかりと忘れる。図像と図像の断片を、その内容でゆるやかに繋ぐような感じで、何かを思い出す。

一部始終を覚えることを諦めるような感じ。私の記憶に映像のようなものはほとんどないような気がする。断片と断片のその間に、可能性もそのものがあるよう なそんな感じがする。平面と平面を繋ぐ作業をすることで立体に起こって、それが記憶になる。それが面白いしいつも違ってもいい。とてもいい加減。

映画を見ても断片にばらして図像とテキストにしてしまう。だからか映像を使って何かを表現することは私の範疇に決してない。とても窮屈に感じてしまう。で も、いま一緒に東北にいる小森は窮屈じゃない映像を作れる作家で、そういうひとと同じものを見ていること自体に意味があると感じている。

なんだかまとまらないけど、おそらく小森は物事の流れを汲んだその 先に飛べるんだと思う。私は飛べない分その隙間でたくさん遊べる気がする。同じものをひと月もひとと一緒に見ることもなかなかないから、とにかくよく見る ことを続けたい。そしてそれを他の目線でもう一度見たい。
さてさて、きょうは夜中にイカ釣りの漁にでる船を見に行こうと思います。それまで今まで見たものをちょっと整理しよう。

twiter@seonatsumi