2011.9.18(2011.10.18 seonatsumi)

専修大学で目が覚める。
車中泊の目覚めと言うのはあまり気持ちのいいのではない。
気づけば車内は暑いし体は痛い。
でも金欠なので文句は言えません。

女川へ向かう。
女川は何度も近くを通ったことはあったけど、実際に訪れるのは初めてだった。
石巻市に囲まれるようにしてある女川は、原発があるために周りの町より裕福だったので合併に参加しなかったと聞いたことがある。
そのような立地でも、石巻市街をしばらく走り女川に入ると、大分景色が違う。
地盤沈下した上に巨大な津波が押し寄せたために、鉄筋コンクリートの建物さえもごろりと転がってその底面を地上に露にしている。
住宅はほとんど土台後と流されて、残ったものはあまり片付いていない印象。
おそらくだけど、コンパクトな市街地だったんだと思う。
それももうほとんどない。
そして津波に被災してから細かな片付けはしているものの、大きな工事はまだ行われてはいないようだった。

海のすぐ側に山があるような地形のため、かなり高い山間にあった建物は無事だったようだ。
坂道をしばらく登っていくと町の大きな運動場があり、そのなかに仮設住宅、避難所、ボランティアセンターなどが集まって出来ていた。
ちょうどお昼前くらいの時間だったため、住民の方達が炊き出しに並んでいた。
子供達も走り回っているし、おじいさんおばあさん達は日なたでおしゃべりをしているしで、なんだかとても穏やかな場所に見えた。
ボランティアセンターでインタビューに応じてくださる方を探す。
すぐにきれいな女の方が出てきた。
彼女はNさんと言う。
Nさんはなまりのない言葉で、とてもあか抜けた雰囲気の方だったので(失礼ながら)どこかの応援のスタッフさんかと思ったけど、生まれも育ちも女川、旦那さんも女川、という方だった。
Nさんは淡々とした口調で、そして何度も話し慣れている感じで、津波当時の話をしてくれた。
Nさんはそのとき高台にある女川の病院におり、そこなら大丈夫だろうと思っていた。
しかし、実際にはNさんがいた2階の床上まで水が流れ込んだ。
Nさんは必死にトイレの洗面台の上にあがり、流されてきたお年寄りを掴んでは引き上げた。でも、手が届かなくて亡くなった方もたくさんいたという。
みんなびしょぬれで、とにかく寒かった。
水が引くと亡くなった方もたくさんいて非常につらかったけど、まずは生きている方を助けなくちゃいけない。
病院にあるありったけの毛布でみんなをくるんで、なんとか夜を過ごしたという。
なんという体験なんだろうと思う。
私の小さな想像力でもその体験のディティールが目に浮かぶような、そういう語り方だった。

Nさんにはお子さんがいて、次男は海沿いの幼稚園に通っていたという。
高台の病院がこの惨状なら、もう海沿いは何もないだろうとすぐに予想がついたという。
息子を諦めた、とNさんは言った。
その時一緒にいた病院の患者さんも、仕事場の同僚達もみんなみんな苦難に遭っている。
だから、自分ひとり息子が亡くなってもその悲しみに暮れていることは出来ないと思ったと語る。
そんなに悲しいことがあるのか。
個人の悲しみは共有することで和らぐ場合もあるんじゃないのか。でも、その共同体の持つ悲しみが大きすぎて、それすらも許されないのだろうか。
でもとにかくNさんはそう判断して、息子への思いを胸の中にしまったという。

なんとかこの町営の運動場に来ると、避難民たちが集まっていた。
その中に亡くなったと思っていた息子さんもいて、本当にほっとしたという。
幼稚園の先生達が乳飲み子を抱えて歩ける子たちを歩かせて、この高台まで必死にあがって来たという。
子供達の足で30分かかる場所を信じて歩き続けることは、どんなに大きな責任感と恐怖を抱えながらのことなのだろう。

Nさんの旦那さんは当時出張で青森の方に行っていた。
だから、その時の一番大変だったときを知らない。そういうことで夫婦喧嘩になることもあるという。
でも二人とも生まれも育ちも女川と言うこともあって、この町に住みつづけたいと言う思いはとてもつよい。
なんでとかじゃなくて、ここが一番良いと思うから、ここにまた家を建てたいんです。

羅列して書いてしまった。
他にも様々なことをこと細かくおっしゃっていたけど、多分それは小森の文章を読んだ方が良いと思う。
彼女の方が正確に記述している気がする、、。

Nさんの個人的な体験を聞いていると言うより、なんだかドキュメンタリー番組を見ているような見事な流れと語り口だったので、私は何を言ったら良いのか分からなかった。
何度も話すうちに、体験の要点が絞り込まれて、事実がすでに選びきられていると感じることがある。
それは良いとか悪いとかではなくて、繰り返し話すと言うことはきっと編集することなんだということだと思う。
たくさん話すと言うことで失うこともあると思うけど、伝える力は増すのだろう。
Nさんにお話を聞けて良かった。
とにかく受け止められるだけ受け止めたいと思った。

移動して仮設のお店が集まった小さな広場へ。
親子丼を食べる。
女川には今ここにしかお店が無いのか、店内は地元の人ではない人と思われるお客さんがたくさんいた。
親子丼はとてもおいしかった。

沿岸を走っていると車がたくさん止まっている場所があったので、私達も車を降りてみた。
止まっている車のナンバーを見ると全国各地のものが集まっている。
京都、大阪、北九州、袖ヶ浦、千葉、山形、熊谷、、。
車を降りた人々は一様に海を見ていた。
そこは根こそぎ倒れた鉄筋のビルがごろごろしている場所で、地盤沈下であらぬ所に水がたまっていたりする。
なぜここにいるか訪ねてみると、特に理由はないという。
ただここが元海岸沿いの観光地であったために人が集まるんじゃないか、とのこと。
しばらくそこで海を見た。
とても静かだった。

石巻に戻る。
4月に来たときからお世話になっているおじいちゃん(以下Hさん)のお家へ。
私達はボランティアで石巻の駅前近くに来ていて、依頼されたお家が早くに終わって歩いていたら、ひとりで畳をあげようとしていたHさんに出会った。
Hさんは頼りない私達を見て、あんたらに頼める仕事じゃないんだよなあ、と言った。
最初はあまり話をしてくれなかったけど、一緒に炊き出しを食べたり絆創膏をはったりするうちに、助けてくれるなら助けてもらおうかな、と言う話になった。
私達はボランティアの拠点に戻り、屈強そうな大工さんを無理矢理誘ってきて手伝ってもらい、なんとか畳を処分した。
屈強な大工さん3人でやっと持てる畳だった。
どれほど重いのだ。
床は抜けているし壁も穴があいているお家だけど、Hさんがそれをとても大切にしているのがよくわかった。

次に訪れた時Hさんは、もうこの家は解体することにしたんだと言った。
私は拍子抜けした。大切な家じゃないのか。
Hさんは続けた。
この家を直すのには大変なお金と時間がかかってしまう。ぼろ家だから割にあわないでしょ。でもね、最後にこうして片付けが出来て感謝してるんだよ。
お世話になったこの家と土地を、汚いまんまでお返しするわけにはいかんもんな。
家の中に目をやると、床もないし壁も穴があいているけれど、それでもきれいに片付けられていた。
箪笥の中身は全て取り出して手洗いされて、室内に張られたロープに干されているし、テーブルの上にはかわいいテーブルクロスがかかっている。
カレンダーも貼ってあるし、黒電話もおそらくいつもの場所においてあるし、長靴や軍手はすみっこにきちんと並んでいる。
それはとてもきれいな光景だと思う。
私は津波で流されてしまった町の中に茶碗がきちんと並べてあったりするのをみてもきれいだなと思っていた。
きれいと言う言葉はあわないかもしれない。
でもそこに誰かの意思がある動作を感じると、
いつかあった景色と少しの未来が繋がる感じがしてほっとするのだ。
希望と言うのは大げさだけど、何かが見える感じがする。

Hさんは今、息子さん夫婦のお家に暮らしている。
ここを訪ねるのも2回目になる。
玄関を覗き込むとHさんが中からでて来た。
おお、またあんたたちか、といってにやりと笑うとお茶でも飲んでけと迎えてくれた。
Hさんはの部屋はその家の一階の居間のような場所にある。
ものが雑然と置いてあって割と散らかってはいるけど、Hさんの行動範囲のとおりにものが置いてあったりして、そう言うことが分かるのが良いなと思う。
水を飲むコップ、こぼしたら拭くティッシュ、それを捨てるゴミ箱、全てが一連の流れの中に配置してある。
Hさんはまたいろいろなことを話してくれた。
石巻の歴史のこと、自分の仕事のこと、震災当日のこと。

あんたたちも、拠点を大切にしなさい。
Hさんは不意に言った。
自分の暮らす所、そのまわりの人達、生活、そういうのが一番大切になってくるから。
私は生まれも育ちも石巻でずっとここを大切にしてきたでしょ。
あなた達もいつまでも家を空けていないで、自分の暮らす場所を大切にするんだよ。

東北に来て、私は自分の拠点すら定かではないなあと思うことが多い。
実家は東京にあり生まれも育ちも東京なのだが、その場所に明確な思い入れがあるかどうかは、あまり自覚がない。一人暮らしするときも便利なら場所は選ばなかったし、この町に住みたいという感覚もあまりなかった。
身の回りにいるひとも電車に乗って会いに行ければ良いと思っているし、お隣さんと関わることもない。
Hさんの言っている拠点と言うのはもっとはっきりとしたものだと思う。
まず家があってそこに奥さんがいて、お隣さんはこういう人で、近くにはこういう景色が見えて。
大人になる過程でそういうものはだんだん選び取られていく傾向があると思うけど、東北に居るひとの方が、東京にいるよりそれを大事にしているひとが圧倒的に多い気がする。
私は色んな場所に行って色んなものを見たいし作りたいけれど、そういう拠点があった上で移動するのと無くて移動するのでは、生活の質がまた違うだろうなと思う。
どこでどう暮らしていくか。
一番基本的なことを選んでいかなきゃいけない。
選んでいこう、と思う。

話をしている中で、急にHさんは左手を右肘に添えて動かしながら、右手掲げて手のひらを動かし、これ千年に一度の津波ね、といって笑った。
右手は指をうねうねと動かしている。
その急さと津波の表現力にみんなで笑ってしまった。
千年に一度のギャグです、あんた達に披露するのが初めてだ。
みんなで手を動かして津波の真似をした。
大津波はもの凄く恐ろしいけれど、誰かの生活の中で表現される時にこういう形に変わっていくことがある。

随分と長い間いてしまった。
Hさんにお礼を言って、駅前通りのあのお家に向かう。
Hさんはさっきあっさりと、昨日解体だったんだよね、と言っていた。
そこにつくと、確かにもうほとんどが崩されていた。
お家だった木材が、地面に散らばっている。
建物が無くなったその場所は思いのほか小さな四角形をしていた。
私は、その場所に何を感じ取ることもあまり出来なかった。
Hさんがいたなあとか、きれいに並んだ洗濯物のこととか、もう繋がりにくかった。
痕跡を探そうとすればたくさんあると思うけど、それをすることは特になんでもないなと思った。
Hさんは新しい生活をはじめていて、その場所を拠点にしている。
Hさんの新しい部屋も私は好きだなと思った。
それで良いんだよなあと思う。
ひとつ思い出にアクセス出来るものが減ったかもしれないけど、それを所有することよりもっと、大切なものがある。
思い出は大切かも知れないけど全てを持ちきれる訳ではないし、ほかの回路の中でも十分にこの家のことは考えられると思うから、それできっと十分なように思う。
このお家にHさんがいたこと、ここで話をすることが出来たこと、それは本当に私にとって大切な1つの出来事だと思った。

仙台に向かう。
久しぶりにふとんに潜り込んで眠る。
なんと気持ちがよいのだろう。

 

 9.18(10.18)

 

 

onagawa

 

石巻から女川へ。石巻に取り囲まれるような場所にあるその町は、なんだか今までと少し違う景色に感じました。ぱくりと飲まれてしまったようなその町では空 と海が膨れてはち切れそうに大きく見えました。灰色の地面には土台ごと引っくり返ってしまったコンクリートのビル達がごろごろと転がっていました

ぽっかりと開いた景色の中に人びとがたくさんいて、海を眺めたり話をしたり写真を撮ったりしていました。海には建物の破片や道路の看板が沈んでいて、その隙間にたくさん魚が泳いでいました。群れの魚が集まっては散ってを繰り返していました。

女川は町の八割が津波をかぶっているとのこと。高台の町立病院には津波は来ないだろうとの認識もあったが、実際には病院1階の天井まで水没している。毎年の防災訓練所で津波の避難訓練もあるが、ここまでの規模は想定はしていなかったとのこと。

避難についての話を聞くときに、三回の津波に襲われた村で聞いた話を思い出す。津波を想定することはとても難しい。危険かどうかはその場でひとりひとりが 判断して逃げるもの、津波には勝てるものじゃない。その村では津波に襲われる度に村を作り直す。年を追うごとに津波でなくなる人は減っている。

twitter@seonatsumi