2011.9.24(2011.10.24 seonatsumi)

 

仙台の宿で目が覚める。
京都の友達たちは仙台で仕事があると言って、私達が目覚める前に出発した。
キッチンのテーブルに書き置きがあった。
ひとりひとり一言ずつ書いてあってなんだか嬉しくて、これは保存版だと言うことになり、丁寧に本に挟んだ。

少しゆっくりめに出発。
今日は南相馬の原町のボランティアセンターでお話を伺う。
前回対応してくれた女性ではなく、男性のKさんという職員さんが対応してくれるという。
Sさんは40代くらいの男性で、結婚されているがこどもはいないという。
原発事故の影響で、30キロ圏内にある原町区はしばらく屋内退避の間は泥かきのボランティアは出来なかったため、物資を車で運ぶボランティアを募集していた。
原発事故に関しては各自の判断が必要になってくると考えている。
そんな危険な場所でボランティアを募集するなんて、何を考えているんだとお叱りを受けることもあります。
でも、ボランティアをしたい人、それを受けたい人がここにはいる。
私達としてはここは安全だとしか言えないし、ここで何かをしたいひとを繋げたいんです。

私は、ここに住む人達は、ここから去るか留まるのか、何を食べるのか、水を飲むのか、マスクを着けるのか、いろいろな判断を個人や家族単位でしていかなくてはならない状況にあるんじゃないかなと思った。
きっとそれはとても孤独な判断だ。
自分の生活していた町が、そこにあった人間関係が、目に見えない、本当に危険なのかさえ分からない汚染によって歪んでいる状況。
あそこのお家はすぐに逃げたけど、あっちのお家は今も直栽培の野菜を食べているの、なんて言うこともあるだろう。
そこで自分はどう動くのか。
仕事も、お金も、家も、自分たちが持っていたものたちがどんどん歪んで行く。
そんな状況で、何を信じて、何を基準にして行動すれば良いのだろう。
ここにいるひと達は、決して国の決定をまっているばかりではないし、それだけで行動しようとしている訳ではない。
自分の持っているたくさんの要因があってここにいて、ここで生活をしたりしているのだ。
私は、このことは東京では決して想像出来なかったことだと思う。

南相馬市の道の駅に立ち寄る。
土曜日と言うこともあってか混雑していて、見てみるとほとんどが地元の車だった。
中では地元の野菜や果物、お土産物がたくさん売っていた。
ほとんどのものの値段表示の横に、放射線の測定値と、この商品は安全ですの文字が書いてあった。
他のお客さんはたくさん地元の食べ物を買っている。
おいしそうだし安全と書いてあるけど、私達は何も買わなかった。
私は浪江町で作られている、七宝の黒いネックレスを買った。

道の駅の一角に、南相馬市の観光案内所のようなものがあって、そこの受付の方と少し話をした。
南相馬市は町おこしの一環として登録している農家さんへのホームステイを斡旋している。普通のホテルに泊まるのではなく農村の家庭に泊ってもらい、その土地の食材の郷土料理を食べたり話をきいたりして、この町を好きになってもらおうとする試みだ。
しかし震災があってからは、半分以上の農家さんがいろいろな理由で受け入れを取りやめており、残りの農家さんもボランティアさんを受け入れている状態だと言う。
そして、登録している農家さんのほとんどは、今は農作物を作っていない。
この案内所自体は去年から設置されたもので、農家へのホームステイ自体もまだ日が浅い。
試みをはじめたところで大変なことが起きてしまった。
受付の方はそれを酷いとも苦しいとも言わずに、淡々と話してくれた。

道の駅と道路を挟んた向こう側の公園に、ボランティアさんのテントがたくさんあった。
子供達が遊んでいる小さな公園にテントが張ってある光景は、なんだか不自然なもののようにも見えた。

移動して新地町へ。
新地町は福島県と宮城県の県境に位置する。
私達の大学の先輩のKさんという方が新地町のボランティアセンターのスタッフをしていて、仮設住宅で小さな商店を作るようなプロジェクトをしていると聞いたことがある。
ボランティアセンターでそのことを聞いてみると、あーKくんね、○○プロジェクトね!とすんなりと帰ってきた。
沿岸各地でアートプロジェクトやワークショップをやっている話は耳にするが、ボランティアセンターや地元の人の中に浸透していることはほとんどない。
その話が出てきても肯定的に受け入れられていることは少ない。
それはきっと、いまこれが必要ですか?という問いに答えられないようなプロジェクトだからだと思う。
でもKさんのプロジェクトは、地元の人の生活の中にしかるべき状態で組み込まれているようだった。

Kさんは不在だったが、他のスタッフさん(Mさんという)がインタビューに応じてくれた。
Mさんは元は他の仕事をされていたが60代になってこの仕事に転職、定年間際のこの3月で震災に遭い、定年が延期されている状態だと言う。
震災のときは高台の社会福祉協議会の事務所付近にいて、逃げてきた方達の避難誘導をしていたという。

Kさんがプロジェクトを行っているという仮設に行ってはみたが、時間も遅かったためかそこで何かをやっている様子は確認出来ず。残念。
仮設には子供達もちらほらいて、集会場のベンチで家族同士でおしゃべり等をしていて穏やかな様子だった。

移動して新地町沿岸へ。
地盤が激しく沈下しており、広い範囲に水が溜まっていた。
あたりはほとんどの建物が流されていたが、壊れた日用品のたぐいや家具や家電などはきれいに片付けてあった。
夕暮れで、様子を見に来ている家族連れをいくつか見かけた。
多分、地元の方達だと思う。
子供達は流された家の基礎のふちを、手を広げて落ちないように慎重に歩いて遊んでいる。
子供達は特に大した意識をしていないかもしれないけど、彼らがいつも遊んでいるような遊び方をしていることに、どう言う種類か分からないけど安心に似た感情を持った。

地盤沈下で溜まった水に、赤紫色の夕暮れがはっきりと写り込んでいた。
波は穏やかだったけどすこし鈍い色をしていた。
津波で運ばれて広範囲になった砂浜は薄い灰色をしていて、あたりを包んでいた。
その様子を私は、うつくしいと思った。
震災で出来た景色に、こういった感情を持つことは不謹慎を思われるかもしれない。
でも、うつくしかった。
そのこと自体を否定する術はないし、それはする必要はないと思う。
そこで起きた悲しい出来事を考えることと、そこにあるうつくしさを感じることは、なにか遠い所に分離して存在していることのようだった。
うつくしさは、考えることを突き抜けた場所にあるみたいだった。
その景色がどう見えるかと言うことと、その場所に何があったかは別の次元にあることもある。
どう見えるかと言うことを否定する必要は全くない。
けれど、そこに何が起きているかは、時間をかけてよく見なくてはならないと思った。

仙台に戻る。
質素な夕飯を食べて、シャワーを浴びて、荷造りをする。
夜中に北上まで移動をする。
途中ちいさなクリーニング屋で洗濯物を洗う。
クリーニング屋というのはどうも温かくて、いいにおいで、眠くなってしまう。

少し走った所で小森と運転を代わる。
いつも私が寝てしまうのだが、今日は小森が寝てしまったので、行ける所まで走ってみようと思う。
道はすいていたが、途中たぬきがばんばん飛び出して来たり道路から霧が出ていたりして、なかなか怖い雰囲気だった。
私はラジオを聞きながら、あと一週間で終わる滞在のことと、東京に戻ってからのことを考えていた。
深夜2時か3時には北上についた。
私達はコンビニの駐車場で車中泊することにした。
飲み物を買いにコンビニに入ると派手なギャルと恐いお兄さん達がいっぱいいたので、少し怖くなった。
でも外に戻ると星が満天だったので、そんなこともすぐに忘れた。
もう大分寒い。
気づいたら、眠ってしまった。

 

 9.24(10.24)

 

minamisouma

 

南相馬の道の駅、とてもにぎわっている。主なお客さんは地元の方達のようで、売っている野菜や果物も地元の物が中心。どの商品にも放射線量基準値したまわっております、の札あり。

南相馬でお話を伺う。平成の大合併で鹿島、原町、小高の3つが合併した町。今回の原発事故により鹿島は30km圏外、原町は30km圏内、小高は避難区域 になり、合併前の境界線とおおよそ被っている。ボランティアセンターもそれによって分かれており、現在は鹿島と原町のみ活動しているとのこと。

原町では最初、移動の出来ない方、身体の不自由な自宅避難の方を対象に物資配達のボランティアを行っていた。その後緊急時避難区域になったときから、瓦礫撤去のボランティアも行うようになる。それまではニーズは上がってきても対応出来なかった。

南相馬ではたくさんのひとがいろいろな不安を抱えてる。家は、仕事は、保障は、家族が一緒に暮らせる日は、思い出の景色は、美味しい作物は、育ててる家畜は、明日の健康は。原発はいろいろなものを持って行ってしまったんです。と力無くおっしゃった。

南相馬にボランティアに来てくれる方々はここがどういう場所か十分に理解してくれた上で、ここにいるんだと思います。今回のことに関しては本当に個人の判 断に依ると感じる。私も私と妻の判断でここで仕事を続けています。いろいろな意見があるけれど、今はそれを選んでいます。

移動して新地町の沿岸へ。住宅があった場所が、地盤が下がって水が溜まっている。夕暮れ時で親子連れがちらほらいて、子どもは基礎だけになった家の縁を慎 重に歩いていた。空が水面に映っていて、奥に見える海と水たまりでは映る色が違う。海は色を鈍くして、水たまりはやけに鮮明にあたりを映していた

私はその景色を見て、うつくしいなと思いました。夕暮れの色、広い空、それらを映しこむ水面。色合いが、反射が、大きさが、、そこで起きた悲しい出来事や 無くなったものや危険の堆積の内容を汲み取ることは出来ず、うつくしさは分離して存在しているように感じました。ただ、そこにあると思いました。

うつくしいことを、たくさんの状況や意味や思考とごちゃまぜにして理解することは、何か危険なことのように思います。うつくしいと感じること自体は、ある 意味で条件反射のようなものかもしれない。うつくしがることを肯定してもいいけど、そこにあるものをとにかくよく見なきゃならないと思いました。

twitter@seonatsumi