2011.9.25(2011.10.25 seonatsumi)

北上のコンビニで目が覚める。
朝ご飯を買って、釜石に向かう。
釜石は8月にも訪れた。
その時一緒に来た友人が、海鮮丼が食べられなくてすごく悔しがっていたのを覚えている。
釜石のボランティアセンターは駅前の小さな観光ショッピングモールのようなものの近くにあった。

ボランティアセンターでお話を伺えないかと話しかけると、すぐに30代くらいのお兄さんが承諾してくれて、さらにセンターの代表の方を呼んでくれた。
Yさんというおじいちゃんだった。
Yさんは私達がカメラを持っているのを見ると、少し緊張した面持ちで、大きく引き延ばした釜石の地図の前で話し始めてくれた。

釜石では津波の防災教育がしっかりしていたから、小中学生は誰も亡くならなかったんだ。津波は怖い、必ず来る、きたらとにかく高い所へと徹底して教えていた。
学校にいた児童はもとより、通学路にいたもの自宅にいたものも全員助かった。これは釜石の誇りだよ。
でもね、大人は大勢死んだ。僕の友人も死んだよ。
釜石には津波が何回も押し寄せて来たことがあったから、ここまでは来ないだろうという思い込みがあって逃げない人が大勢いたんだ。
人の想像力で自然を相手にしちゃいけないんだ。
ここまでならとかそんなもの、通用しなかったんだ。

Yさんは釜石出身で釜石から出たことがないしここ以外に暮らすことは考えられないと語る。
時々涙目になりながら、この町のひとがまた同じ場所で同じコミュニティーに戻っていって欲しいと語る。
この町以外知らないんだ、この町に生きてなくちゃ自分じゃないみたいなんだよ。
ここにはそういう人がたくさんいる。私はこの町が大好きなんだ。

自分の町を愛することは、一体何を愛することなのだろう。
そこにいる人、その関係性、仕事、地形、自然の状態、そして景色、、。
いろいろな要素はあるだろう。
そしてそれらはいつも移り変わるものだ。
でもその移り変わりを常に体感している人たちにとっては、町自体に自分も組み込まれているし、自分の中の大きな部分としても町があるような構造になっているような気がする。
町への大きな破壊があった時、そのような人達はなんとか自分たちの治癒力で回復しようとする。
その様はきっと、かさぶたが出来てまた似たような形を構成することに似ているのではないだろうか。
それは良いとか悪いとかではなくって、そういう治癒を経て、すこしずつ皮膚を厚くしていくような、そういう歴史の作られ方があるんだと思う。

Yさんの話を聞いていて、私は何度も泣きそうになった。
それはKさんが泣いているから、ということもあるけれど、Kさんの体感として失ったものがあまりにも大きくふくれあがっているのが見えるようだったからだと思う。

Yさんのお話のあとで、最初に話しかけた男性が、声をかけて来てくれた。
Yさんはああいう人だから少し戸惑ったかもしれないけど、良い人なんですよ。
実は私は東京から婿としてここに来ていて、すごく素敵な町だと思っています。
また、来てくださいね。

駅前のショッピングモールで念願の海鮮丼を食べる。
500円の海鮮丼、おいしくて、嬉しい。

釜石から移動して大槌町へ。
ここは初めて訪れる。
事前に調べたところ、ここでは町民の約10人に一人が亡くなっている。
人的被害がかなり大きい。
そんな情報を耳にしてからその町を訪れるのは、とても勇気がいると思っていた。
そんなに被害が大きい町の人々は、どういう風に暮らしているのだろうと考えてしまった。
東北に来てから、どんな非常事態でも非日常なんかないと感じて来た。
日常の中に、自分たちが想像もできないようなことが起こることがあるのだ。
そして、それと対面しなければならなかったのだと思う。
それでも人々は日常というものの中で考えたり、ご飯を食べたり、話したり、仕事をしたりしているのだとわかった。
それでも、10人に一人が亡くなるというその事実が、もの凄く重かった。

大槌町に入る。
ボランティアセンターを探していると、何やらそれらしいテントが壊れた町の、壊れたパチンコ屋の前にあった。
スタッフさんは若くて、何やらパチンコ屋の店員さんのような風貌だった。
ここじゃなくて本部が山の奥にあるんで、そっちに行ってみたらどうすか。
なんだか明るい調子だったので、私はなにやらほっとした。

そして今日はどうもお祭りらしく、カラフルな小さなた隊列が踊りながら歩いていた。波で流されて薄茶色の砂埃が舞う町に、元そこにあったであろう道に沿って列が練り歩いている。
その姿はなんとも奇妙で、でもきっととてもいいものなのだろうと思えるものだった。

先ほどのお兄さんに紹介された方向に走って行ってみると、随分と山奥にある空き地にちいさなプレハブが建っていた。社会福祉協議会とボランティアセンターと書いてある。
今から話を伺えるか訪ねると、明日の方が都合がつくとのことで、明日伺う約束をする。
スタッフさんはみんな若そうだった。
そしていわゆるギャルファッションをしている人が多い。
なんなのだろう、ボランティアセンターの中にもキャラクターグッズがたくさん置いてあるし、流行のアイドルの曲が流れていた。
中庭には意味ありげな置物が、意味ありげな円陣の形になって置いてあるし、とにかく不思議で仕方がなかった。
今までに見たことのない雰囲気だった。
また明日、訪ねよう。

市街に戻ると車で少し行った所に仮設のステージがあって、周りに出店が出ていた。
先ほど見たお祭りの会場のようである。
人が集まっていたので覗いてみる。
ステージの上には私が見たことのない軽やかなステップで、よく聞くとすこし下世話な歌詞の節を歌いながら躍る人々の姿があった。
次々に地元や山田町の地区ごとのグループが出て来て、それぞれに見たこともない踊りを躍った。
どれもこれもカラフルで、すごく面白い。

大槌町で映画をとっているOさんと言う方もこの会場にいると連絡があり、お会いした。
彼は大槌出身で毎年このお祭りを見ていると言う。
いつもならこのお祭りは朝の9時から夜の10時までかけて町内の家を一軒一軒周り、家の前で踊りを披露してくれるというものらしい。
なんともそれは体力のいる無茶なお祭りなんだろう。
しかし今年は家が流されてしまったので、形を変えて開催したという。
なんだろう、とても興味の惹かれる町だと感じた。
もっとこの町について知りたいと思った。
Oさんとは、また東京で会いましょう、といってお別れをした。

夕暮れ前になった。
今日取材に行けるボランティアセンターはもうなさそうだった。
大船渡の秋葉ダムが見たかったので、移動。
もうだいぶ日が短くなってきた。
夕暮れのダム。
ダムを実際に見たのは初めてだった。
奥底に続いて行くコンクリートの巨大化な階段、電灯で照らされた水面、思ったより自然な楕円形の大きな水たまり、それを囲む山々、木々。
溜まった水を見ると言うよりも、山々に囲まれた水面の上に ぽっかりと存在する空気の塊を見ているみたいだった。
だんだんに日が落ちてきて、薄紫色から暗い水色、濃い青色に変わっていく。 
あたりは人通りもなく、とても静かだった。
 
近くの温泉に入る。
ここは大船渡のボランティアさんがよく訪れるそう。
申し出ればボランティア割引きをしてくれる。

六月に来たときは、自衛隊の方たちの姿もあった。
自衛隊の方たちは礼儀正しく、失礼します!と言っていた。
小森が、自衛隊の方たちはあんなに過酷な状況で働いて、どこでも礼儀正しくて、いったいいつ弱音を吐くのだろうと言っていたのをよく覚えている。 
それは本当に、そう思う。
人命救助や道路の確保はもちろんのこと、被災した方たちの入浴、洗濯、炊き出し、音楽の演奏までする。
それでも自衛隊という存在に重苦しさがあるのは、この国の歴史があるからだろう。
もちろん助けられた方たちは直接お礼の言葉をかけたりもしていると思うが、両手をあげてその能力や機能を喜べない部分もあるだろう。
私の祖父は自衛隊で薬剤師をしていた。
母はよく、自衛隊の娘ということはあまり表立って言えなかったと語る。
自衛隊の存在が感謝されたのは、今回の震災ではじめてだと思うわよ。
本当に大変だったんだから。
と母はため息まじりに言っていた。
いろいろな矛盾を抱えながら、いろいろな条件で言葉を選びながら、暮らしはあるのだなあと思った。
 
秋葉ダムに戻って、しばらく星を見た。
ダムの間にかかる橋の上に寝転がると、視界を遮るものは何もなかった。
きれいな星空だった。
四月に岩手の山奥で見た星空もきれいだったと記憶している。
けど、今見ている星空とその時の欲しいものを比較することは出来ないし、する必要もないような気もする。
結局憶えておけるものは、見たものそのものでなくて、それがあった状況とその時考えたことだと思う。
そこから見たものを構成して行くような感じ。
わたしの頭の中には、その時あったそのもの、実物というものはきっとひとつも存在しない。
実物はいまにしか存在しないのだと思う。
だから、いま見えているものを、よく見なくちゃいけない。
 
大船渡方面に戻って、ラーメンを食べた。
飲食店はどこも混雑していた。
 
小森が、車中泊にぴったりのコンビニを見つけといたと言うので、移動する。
確かに広い駐車場だ。
小森はこんな能力も身につけたのか、と思う。
車の中で今日見た踊りをパソコンで検索して見る。
やっぱりすごく面白い。

なんだか疲れていたので早目に眠る。
今日はかなり冷える。  

 

 9.25(10.25)

 

otuchi

 


今日は釜石でお話を伺う。津波当日のこと、亡くなったご友人のこと、町のこれからのこと、釜石で生まれて釜石で育って釜石から出たことがないよとおっしゃ るおじいちゃんは、時々涙を浮かべながらたくさん話をしてくれた。生まれてずっとここにいるから、ここ以外で暮らすことは考えられないんだよなあ。

釜石に入ると津波に注意の張り紙がたくさん貼ってあるのに気づく。巨大な津波から人が逃げているピクトグラム。釜石は学校の防災教育が徹底していた。地震 が来たら高台に逃げる、ここより上へ上へ、学校に残っていた児童はもとより、下校中の生徒も全員無事だったんだ。それはとにかく釜石の誇りだよ。

ただ大人は逃げない人、逃げ遅れる人が多かった。釜石には何度も津波が押し寄せて町が壊れたことがある。だから、まさかここまでは来ないだろうと言って逃 げない人が多かったんだ。意識が甘かったと思うよ。人の頭で自然の力を想像出来る訳はないんだ、自分の知識だけで決めつけてはいけないんだ。

私は今仮設に入っている人達が元の集落に戻って、またそこで生活をしてほしいんだ。釜石には釜石から出たことがない人がたくさんいる。知ってる人、知って る土地、知ってる景色の中で暮らすことがとても必要で、それを目指すことが励みになる。早く、そうやって暮らしている様を、また見たいんだよ。

ある町で生まれて育って仕事して家庭を作る。そこで暮らしを作って来た人にとって、その町その場所以外で暮らすことは、ありえない、事かもしれない。高台 に移動したら堤防をたてたら安心な町なのでしょうか。そこに暮らす人がそこに暮らす意識をもって、そして幸せに思えないと、町なんて意味がない。

移動して大槌町へ。例年は一日かけて町内を練り歩くという大きなお祭りも、今年は歩く場所がないので小さなサテライトステージが数カ所。ステージとステー ジの間、津波で平らになった薄茶色の景色の中を赤や黄色の山車がつないでいく。お祭りが通った場所には、元にあった町が見えたように思った。

東北を移動していると、町ごとに言葉も習慣も踊りもリズムも違うことに気づきます。今日は見たこともないリズムの踊りを見ました。初めて見る物語の虎の踊 りも見ました。見たことのないものなんてたくさんあるし、多分全ては見きれない。私はとにかくどう関わるかどう見るかを大切にしたいと思います。

いま大船渡ですごい満点の星空を見ていて、すごいきれいだなあなんて思っています。でも、4月にも遠野で満点の星空を見ていてすごいきれいだなあと思った ことがある。二つの星空を比べることは出来ないし、する必要もないんだけど、結局今見ているものが一番きれいなんじゃないかなとか思いました。

過去に見たもの聞いたものは美化することも逆をすることも簡単に出来るけど、今見ているものはそうはいかない。今目の前にあるものをよく見ておきたい。そ れだけでいいしそれがいつか歪んでも、歪むこと自体は悲しむべきことでないように思います。その時よく見なかったことは悲しいことだと思うけど。

なんかよくわからないな。でもそう思います。だからとにかく起きていることを良く見ます。それだけはやり抜きたい。

twitter@seonatsumi