2011.9.3(2011.10.3 seonatsumi)

 

 

今日は閖上小学校と北釜の集会場に行った。

※閖上小学校は津波に流された思い出の品(ランドセルや位牌やトロフィーや)の収集場と写真洗浄のスタジオになっている。写真洗浄とは、津波で流されて汚れてしまった写真を出来る限りきれいにして返却しようとする試みで、今回の震災にあたって沿岸各地の市町村で行われている。私達は7月から何度かこの閖上のスタジオに足を運んでいて、8月には自分の大学に写真を送ってもらって学生や大学関係者を集めて洗浄のお手伝いをした。※

閖上小学校に着く。前回訪ねたときよりも洗う前の写真が減っている。

はじめてここを訪れたとき、見たこともない量のプライベート写真の数々に、私は、場違いな感情かもしれないけど、とても感動した。
知らない誰かが生まれて、学校に通って、成人して結婚して仕事をして、子供を産んで孫が生まれておばあちゃんになっていく。
知らない人の押し入れにしまってあるような写真を見ることははじめてだったと思う。
赤ちゃんを抱いたお母さんの写真がある、子供が運動会で走っている写真がある。
そのどれもが自分が体験した景色の中にもあったような気がして、なんだか共感みたいな感情が生まれる。写真ってすごいなあ、とか思う。思い出が引き起こされるんだ。
とか、考えるのだけれど、ここで起こっていることは、そういうことなんだろうか。

写真は思い出を思い出すためのものなんだろうか。
もしもで話をするのも難しいけれど、もしも私が津波で家を流されたとして、欲しい写真はどれだろうと考える。
家族を亡くしたとき、必要なのは思い出ではない。
少し前まで一緒にいたその人の姿の代わりであって、そこにまつわるエピソードや場所ではないような気がするのだ。
思い出ではなく、その体の、代わりだと思うのだ。
その人とどこに行ったとかそう言ったことは、必要なものは覚えているし、必要のないものは頭の奥底にしまってあるような気がする。
そうだとすれば、一番欲しい写真は、その人がいなくなった時の姿が映っているものだと思う。例えが良くないかもしれないけど、遺影だって亡くなる直前のものがいい。もしくはその人のイメージに一番似ているものがいい。(私の祖母はふくよかな人だったけれど癌でとても痩せてしまったので、癌になる前の写真を遺影にした、のような)
この場所で必要とされている写真は、私が普段考えている写真とは、別の次元にある。

私自身が誰かの写真を大切に思うことには限界がある。
私が共感できるような写真は自分のアルバムにありそうなものや、見た目がきれいだったり目を惹くものばかりで、例えばおじいちゃん達が温泉旅行でカラオケを歌っているような写真にはそう言った感情は生まれない。
けれど、必要なのはそういう写真かもしれないじゃないか。
写真を洗うことで私の中で何かいろいろな感情を巡らせたりしてはみるけれど、それはなんにも役に立たないような気がする。
どこかで写真に優劣を付けている自分がいるような気がする。
そういう自分がとても嫌になる。
他人の写真の価値はきっと、理解出来ない。
だから、写真は必要な人の手元になければ意味がない。
本来プライベートな写真の価値は、それをその人が持つことによって発生するものなんだと思うし、それでいいと思う。だからこそ、必要なんだと思う。

写真洗浄のプロジェクトを根気づよく続けている人達に、敬意を表したい。
長い時間がかかるし単純だけど情報は多いし、気が滅入る作業だと思う。
そしてそこで大切な写真を受け取って、励みになっている方もたくさんいると思う。思い出が必要な人もいるし、さっき言ったような写真が必要な人もいると思う。
とても意義がある活動だと思うから応援したい。
でも、この活動がナイーブに注目される東京の感じとかはやっぱり違うと感じる。
当事者以外の人が写真を洗う時、その価値は純粋に洗う、とか返す、とかの純粋な動作に還元されるべきだと思う。
役に立つのはそれだけで、思い出が、とかそう言った修飾は的外れだ。それは、写真を受け取った人が選ぶ言葉だ。
なんだかうまくまとまらないけど、ここで写真を探す人達と話す中で、そう思った。

とか考えながら、北釜の集会所へ。
津波が天井までかぶったその場所は、台風で今にも崩れそうに、軋んでいる。
思い出の品が簡潔に整理して並んでいる。
先月訪れたときは洗浄済みの写真があったのだが、張り紙に、仮設の集会場に移しました、とある。
集会場へお邪魔すると、写真達は簡素なアルバムに分類されて隅っこに置いてある小さな本棚に収まっていた。集会場にくればいつでも見れるし、知っている人がいたら渡してもいい。側には虫眼鏡が置いてあって、ここでお茶を飲みながら写真を探す人達の姿が思い浮かぶ。
小さな町だから出来ることかもしれないけれど、そこには何か余計なものがない気がして、いい感じがした。

北釜の仮設の目の前にある大きなドラッグストアで買い物をする。
その駐車場でなぜかゆでたじゃがいもを食べる。
ケチャップをつけると何でもおいしいとか言って、小森と盛り上がる。

仙台に戻ってKさんのお家で絵を描いていたら、また天使みたいな女の子になった。

 

 9.3(10.3)

 

y

 

今日は閖上小学校と北釜の集会場にお邪魔しました。
閖上小学校には自分の持ち物を探しに来ている方がちらほらいらっしゃいました。写真を探しているのを手伝おうとしても、私にはそのひとがどういう人なのか分からないので、何もできなかった。探している人の記憶をもっていないと、私の目は何も役に立たないのでした。

お手伝い出来ることと、出来ないことが明確に分かれていることを身を持って知りました。写真を洗うことは出来るけれど、それを代わりに探して渡しにいくことは出来ないのです。とても基本的なことだけど、大切なことだと思いました

閖上で出会ったおばあさん。去年旦那さんが亡くなって、写真を整理しようと思って2階の自分の部屋に写真をあげた。津波が来ても2階なら大丈夫だろうと 思っていたけれど、お家ごとみんな流されてしまった。なーんもないのよねえ。じいさんがさあ、亡くなった矢先にさ。一枚でもね、出てくればね。

おばあさんは写真を眺めながら、老眼鏡がないからよくわからないわ、と呟いた。たくさんの写真をゆっくりと見ながら歩いていく。そこには見つけたいという強い気持ちと、探すことでおじいさんと向き合う時間をすごすということが同時に存在しているように思えました。

今日は見つからなかったわ。また今度きます。おじいさんに会いたいわ。おばあさんは仮設のお家に帰っていきました。

あったあった、これ父さんと母さん。声が聞こえた方に行ってみるとおばさんふたりがある写真を指差していました。20年前の私の結婚式の写真、この頃はふ たりとも元気でねえ。こっちも従兄弟の娘の写真、うん多分そう。この辺もみんな親戚ね、小さい頃の写真なんてもう誰だかよくわからないものねえ。

父と母はね、地震の日は自宅にいたの。自宅は海から1キロも離れていない場所だったからすぐに歩いて避難をしたの。杖をついているふたりだから見かねて知らない人が車に乗せて高台に連れて行ってくれたからなんとか助かったけれど、歩いていたら間に合わなかったわね。

閖上には今まで津波が来たことはあまりなかったとのこと。だから地震の直後、壊れた食器などを片付けに家に居る人が多かった。大津波警報に気づいて慌てて車で飛び出した時には道が渋滞していて、逃げ切れなかった人もたくさんいたとのこと。

私の実家は土台だけになってしまったの。みーんな、無くなっちゃったのよ。小学校の頃の成績表も中学校の時の部活の賞状も高校の時の日記も成人式で着た着 物も結婚式のドレスも大切にしてた写真のアルバムも。思い出は全部無くなったの。閖上の町もね、変わってしまったでしょう。

今まで写真洗浄のお手伝いをしてきて、今日初めて手元に写真が戻る場面に立ち会いました。いつかあった事と向き合う事の、そのとっかかりが必要な時がある と感じました。思い出はただ覚えていればいいのではなく、色々な形で、それが必要なその人の側で、その人に使われていくべきなんだと思いました。