2011.9.30(2011.10.30 seonatsumi)

今日で最終日。
南相馬の鹿島地区のボランティアセンターへ。
鹿島は南相馬の中でも原発から30キロ圏外の地域だ。
南相馬はもともと3つの町が合併した地域で、原発からの区分け(20キロ圏内、20から30の屋内退避、30キロ圏外)も元にあった行政区で分けてあることが分かる。
少し考えるだけで、ぞっとするような話だ。

鹿島地区のボランティアセンターは高齢の方と障害を持ったの方々の施設の中に併設されていた。規模としては大きくなさそうな印象。
取材に対応してくださったのは代表のSさんと言う方だった。

Sさんは南相馬市のなかでも異なる様々な状況について語ってくれた。
鹿島は原町よりも原発から少し遠いが、南相馬市であることは変わりないために、ボランティアさんの集まりが思うようにいかなかったとの事。原町よりも人の集まりが悪かった。物資の流れも行き届かなかった。
原町の方が原発に近いから人が集まりにくいだろうと考えて、支援者が集まる。
もとから原発を避けたい人はもっと違う場所を選ぶ。
その中間点に空洞が出来てしまうのは想像出来るような気がした。

そんな状況の中、子供がいる家庭はどんどん南相馬市から避難をしていく。
町から子供の声が遠ざかっていく事が一番苦しい事です、とSさんは言った。
子供がいなくては、この町の将来は何も見えてきません。
幼い遺伝子に大きな影響を及ぼすという放射性物質が、元から子供の少ないこの町に降り掛かっている。
また、子供を作ろうとしている夫婦から、その希望も奪っているのも事実としてあるのだ。

私は月に一回、いろんな場所に避難している子供達が集まって行うチアリーディングの練習がとても楽しみで仕方ないんです。
子供の笑顔が見たいんです。
この町が好きだから、この町の将来に人がいるようにと、思っているんです。

30日間のうちの最後の取材が終わった。
Sさんは何よりも私達がここに来たことを喜んでくれていた。
この場所に来て、この場所を見て、話を聞く。
私はこの一ヶ月で、多分それはそこにいるひとに話を聞く最低の礼儀なのだろうと思うようになっていた。
自分の大切な場所を見もしないで、何かを語られる事ほど悔しい事はない。

またこの町に来てね、と言って鹿島区のオリジナル缶バッジを渡された。
ひまわりのイラストが印刷してあり、裏側にヒマワリの種がくっついていた。
また来ますと言ったら、ありがとうね、手を振ってくれた。
感謝の気持ちが湧いて来た。また来ます。

仙台で人に会う用事を済ませて、ここからどこに行こうかと考える。
昨日も景色を見ていなかったから、どこかに行きたいと思った。
小森も同じ考えのようだった。

なんとなくの勘で、荒浜に行きたいと思った。
空は濃い雲が立ちこめていて、ぱらぱらと雨も降っていた。
荒浜には確か20日前にも訪れた。
その時は晴れていて、残った建物の土台達が白く光っていた。

荒浜に着く。
砂浜がそのまま流れて拡散したみたいで、住宅があった場所も分厚い砂の層になっていた。
元は住宅の庭先であったと思われる場所に車を停める。足下は砂だった。
住宅街だった場所を歩いて抜けて、工事中で立ち入り禁止と書いてある海岸に向かう。
前回来た時は作業している人がたくさんいたけれど、今日は見渡してもほとんど人がいなかった。

フェンスをまたいで、海岸に入る。
荒浜の海が見える。
海はすごく荒れていた。
灰色の海に何層にも白い波の穂先が折り重なっていて、それは激しく起こっては消えるを繰り返していた。
白波がくだけた瞬間をよく見る。
左右に広く拡散して、粒になって、灰色になり海に同化していくのだった。

海岸にはいくつもの花が手向けてあった。
随分と日にちが経っているようであった。
ひからびた花束、薄汚れたクマのぬいぐるみ、フタのあいたワンカップなどが風に吹かれてごろごろと転がっている。

ここに花を手向けに来て、海を見る人達は何を思うのだろうか。
いまここに立っている私は、際限なく遠くから繰り返す波すらも飲み込んでいく海を、怖いと思う。
少しでも触れたら、命を落とすように思う。
今まで海を見を見ることで、自分が死ぬことと直結した瞬間はあまりなかったけれど、なぜだか今はそう思っている。
容易に触れてはいけないもの、そしてそれはただそこに収まっているのではなくて、ふとした瞬間にこちらまでやってくる、そういうものだという体感があった。
それはそこで人が何人亡くなったとか、遺体が何体もあがったとか、天気が悪くて波が荒れているとか、そういう情報によって頭の中で構成された怖さではないような、そんな気がした。

車に戻ってエンジンをかけたら、砂浜にはまってしまって動けなくなった。
周りには人がいない。電灯もないから薄暗くなって来た。
少し焦って、エンジンをニュートラルにして車を思いっきり押す。
出られない。
もう一度押す。
するりと感触があって、車は道路に出た。

仙台に戻り、宿の片付けをした。
お土産でもらったワインとチーズを食べながら、テレビを見る。
なんでもかんでもおかしくなって、小森とひとしきり大笑いをした。
ずっとお世話になっているKさんのお宅で栗ごはんを食べた。
おととい石巻のおばちゃんから栗ごはんパーティーに誘われたのに行けなかったので、嬉しくて仕方がなかった。
Kさんは私達のバスの時間までつき合ってくれて、iPhoneのアプリの話とかお酒の話とか、他愛もない話をした。

バスに乗り込む。
私はこのひと月で見たもの聞いたものが膨大すぎることを感じていた。
このひと月をなんとかして、もっとよく見なくてはいけない。
それには知識や言葉や記憶が必要だろう。
文章にしたり絵に描いたりするうちに何かが変形していくだろうけれど、それはきっと、何が必要かが選ばれていく過程にはなるだろうと思う。

生きている間に起こった全てを覚えているわけにはいかない。
だから、生活を続ける、という基準で持って、人々は覚えておくことと忘れていくことを自然に選択しているのだと思う。
自然淘汰ではなくて、それは選択なような気がする。
その選択のうちに、伝わって有益なことがきっと見えてくるだろう。
自分が見てきたものやいま自分が見ているものを、見ることをやめてはならない。

3月からの訪問を通して、非日常と言うものはどこにも存在しないのではないかと言うことを感じている。
未曾有の自然災害、人類史上最悪の原発事故が起きたその場所も、非日常ではなくて日常なのだ。
日常の中に何かが起きて、そこにいるひとはただ、その人としてそれに対面するのだと思う。
たくさんのひとが亡くなった体育館で話された内緒話、遺体と一緒に流れて来たイカをみんなで焼いて食べた時の味の感想、原発から逃げるために相乗りした男女の出会い。
その時そこに生きている人達は、暮らすことを続けている。

どんな状況でも、自分の死と言うものは正確には想像出来ないんだと思う。
だからこそパンや水よりも、周りに人がいることが必要なのだ。
そこで話したり手をつないだりして、その状況を一緒に抱えることが必要なのだと思う。
それはそこにいなかった人でも、目一杯の想像力と、その想像力を疑う時間を持ち合わせれば、ほんの少しは抱える事が出来るかもしれない。
直接的に何かをする事も大切だけれど、もっと大切な事のように感じる。

バスは東京に向かう。
明日から毎日30日遅れで文章を書いていこうと思う。
あの時見たものをもう一度、よく見る。
それはどう言う事だったのか、何とどういうつながりを持つのか。
一度文章にしただけでは見たものを広げただけになってしまうかもしれない、もっと時間をかけて、何度も見た方が良いかもしれない。

先は長いような気がする。
でも、やっていきたいと思う。
幸い私は一人じゃなくて、小森が近くにいてずっと同じ景色を見て来たから、私が見ていないものも彼女の目に映っていたりするだろう。
それを見ることも出来るのだ。とても心強い。

最後に
3月11日以降に出会った方達に出会えた事が、今の私のとても大きな部分になっています。
とても感謝をしています。
これからもたくさん話をしたいです。よろしくおねがいします。
そして、それ以前に出会った人々と、今まで以上にもっと話がしたいです。
話す、ということしか浮かばない自分ももどかしいですが、最初として。

いままで読んでくださってありがとうございました。
また何かの形で現れますので、そのときはよろしくお願いします。

 

 9.30(10.30)

 

 

onagawa

 

仙台市の荒浜に行きました。三週間ほど前にも訪ねたのですが、今日は初めて海を見ました。海は高波でとても荒れていて、エメラルドと灰色が混ざったような 色でした。浜にはたくさんの花が手向けてあって、その奥に海がある。大きな波の音がしていて、少し弱い風が吹いていました。

津波に襲われて、町が平らになって、夕暮れの空がとてもとても大きく見えた。ずいぶん先の方に車が行き来しているのが見える。どの車もとても急いでいるよ う。この時間になると作業する重機もみんな解散して、町はがらんどうみたいに感じられた。ひとがいない町は、何もない草はらよりも数倍寂しい。

建物は基礎だけを残して、あとは何もない。庭先や街路に植えてあっただろう植物達は、津波の力のかかった方向に傾いて、そのまま固まっている。時々コスモ スが咲いていて、一つの町の中に出来た半年の時差を晒しているみたいだった。コスモスは赤紫色をしていて、まっすぐに咲いていた。

四月に津波に遭った町を初めて見たとき、ここにはどんな人が住んでいてどんな生活を送っていたのだろうと思いました。私がいま津波に遭った町を見ると、ここはどんな場所になって行くのだろうと考えます。この変化の中には、忘れる、という機能が働いているように感じます。

忘れないために、という事を考える時には、忘れなければならない、がそこにあることを了承すべきだと思う。全てを忘れないで保存し続ければ、容量がいっぱ いになって暮らしは立ち行かない。忘れないべきものを忘れないために、忘れなければならないものを選ばなくてはならないと思う。

それを選ぶのは何なのだと考える。私は、暮らす、なんじゃないかと考える。暮らす為に、津波に遭った持ち物を片付ける。残った家の土台を壊して整備する。 新しい土を盛って、新しい町を作る。目に見えなくなって、忘れて行く。忘れたくないものも、忘れなければならないものに分類されている時もある。

twitter@seonatsumi