2011.9.4(2011.10.4 seonatsumi)
台風も去って、といってもすっかりと晴れている訳でもない。 少し出発が遅いけど、お昼くらいに亘理町の鳥の海という場所につく。 その後、亘理の役場へ。 物資倉庫にいると、いろんな人が訪れる。これどうなってんだろな、とかHさんに質問しに来たりするおじちゃん達もたくさんいる。あまり大きくない町だからか、顔見知り同士が多い様子。 Hさんに御礼を言って役場を出る。 お腹がすいたので亘理町内のマクドナルドへ。 こういうふつうの優しいおじいちゃんが放射能で苦しんでいるというのは、とても嫌なことだと思う。 その後、岩沼へ。 帰りの国道を走っているとauショップがあり、なぜかそこで小森の携帯を直す手続きをする。私は店内で待ちながら、少しスケッチなどをした。でも、何を描いたらいいか相変わらずわからなかった。 |
亘理町の鳥海海岸、防潮林がなくなってとても風が強い。海岸には唯一五階建ての宿泊施設が残っているだけで周りには基礎のみの住宅しかない。休日というこ ともあってか仙台ナンバーの車で、変わってしまった景色を見にくる人も多い。津波の前は仙台から日帰りで釣りや温泉にくる人が多かったとのこと。 町役場では復興会議が行われるとのことで、たくさんの人が集まって来ていました。そこで、食料物資受け渡し口にいらっしゃった職員さんにお話を伺う。地震 があった日から一週間、物資が届くまで毎日二食ずつ避難所用におにぎりを握り続けたとのこと。最初にパンが届いた時とても安心したんです。 自宅は一駅先の海沿い。両親は地震の時畑仕事をしていました。母は地震の片づけに家に戻っていて無事でしたが、父は畑で津波にあって天国に行きました。仕 事に夢中なまま、いっちゃった。僕はテレビで仙台空港に津波が来たのを見ましたが、仕事があるので家の様子を知る事はなかなか出来なかった。 お話を伺っていたら農協のかた達がいらっしゃって、今から福島の温泉に行く!今みんなが福島を避けてっからよー、今年はみんなで福島に行くんだよ。じゃあな、がはははと笑いながら、あっと言う間に温泉行きバスは出て行きました。 役場の方と引き続き話していると、ちょっと相談があるんだけど、と仙台牛を育てている畜産農家のおじさんが入ってきました。うちの補償はどうなんだろうね、赤字だよ、赤字。自慢の牛が相場よりうんと安くしか売れないんだ。 うちは浜の近くで農家をやりながら牛を飼っているんだ。津波にあった時、牛は胸まで水に浸かってしまったんだ。だけどぎりぎり息が出来たし、食用の牛だか ら脂肪がたっぷりあったのもあってね、三日三晩冷たい水が引くまで、水の中で足をジタバタさせて体を温めてね、生きてたんだよ。びっくりしたなあ 生きてたのはいいんだけど、石巻から牛のえさを買っていたからね、工場がやられちゃってたからえさがずっと手に入らなかった。東京から福島、山形経由で餌を買って、やっと食べさせたんだよ。 でもね、放射能はどうにもなんないなあ。目処がつかない。どうしたもんかなあ。そこまでおっしゃったところで、うちは廃業だよ、と隣にいたご親戚の方がつ ぶやいた。この方も仙台牛を育てているという。採算とれないからね、牛はやめなきゃなんない。兼業のイチゴも塩水と放射能で土がどうしようもない でもね、他に仕事はないからね、まだどうなるか分からないけどイチゴの準備を毎日してるんだよ。全部検査して出荷出来るおいしいイチゴが出来たら、亘理のイチゴ、食べてね。東京にも出荷してるからさ。 おいしい食べ物を作る事をとても誇りに思っているひとが、その仕事を続ける事が出来なくなっています。放射能は土の上に降り積もり、アスファルトからは流 れ落ちる。土が汚染されてしまえば、食べるということが汚染される。そうしたら生活の最初が汚染されるという事でしょう。それは全てに繋がること。 遠くまで来てくれてどうもね、と別れた後に立ち寄ったスーパーで再び畜産農家さんに遭遇。今孫が来てるんよ、と嬉しそうに笑っていた。家が流された人も家 族を失った人も仕事がなくなった人も、誰かのおじいちゃんやお父さんやお母さんだったりする。とても当たり前の事だけどとても身に沁みました。 (twitter@seonatsumi) |
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