2011.9.4(2011.10.4 seonatsumi)

 

台風も去って、といってもすっかりと晴れている訳でもない。

少し出発が遅いけど、お昼くらいに亘理町の鳥の海という場所につく。
ここは海岸沿いにある温泉施設を中心とした、ちょっとした観光地だった場所で、仙台周辺からの日帰り観光客がたくさん訪れていた場所とのこと。
今は5階建てのその温泉施設以外はほとんど土台だけになってしまっている。
津波の時、その温泉施設にあがった人が助かったとのこと。
土台だけになった砂埃の場所に、ふつうの車が何台か停まっている。仙台や宮城ナンバーで、親子連れが多い。おそらく、こうなった鳥の海を見に来たんだと思う。
私が親だったら、どうするだろう。こんな想像もつかないような悲しい出来事のあった場所に子供を連れてくるだろうか。
連れてくるような気がする。ただし、絶対一緒に、話しながら歩く。
とか考える。
子供はあり得ない形にひん曲がった公園の遊具で遊ぼうとしていた。

その後、亘理の役場へ。
ボランティアセンターの所長さんにお話を聞こうと思ったのだけど、お休み。
たまたま道を聞こうと思った、物資倉庫の当番だったおじさん(以下Hさん)と話す。Hさんはとても親切な人で、私達がここにいるひと達の会話を映像記録していると話すと、自分の体験をゆっくりと話してくれた。
Hさんは津波でお父さんを亡くされていた。
ご両親は農家さんで畑仕事をしていた時に地震があった。お母さんは地震の片付けをしに高台の自宅へ、お父さんはそのまま畑仕事を続けていたとのこと。
津波が引いて、お父さんは亡くなっていた。
広い畑にぽつんと横たわるお父さんの姿を思い浮かべる。
その、津波が押し寄せた瞬間に見たであろう黒い大きな波を想像する。
いろいろと考えるけれど、私の想像力は何も補えない。
Hさんは、仕事に夢中になってる間に逝っちゃったんだなあ、と呟いた。

物資倉庫にいると、いろんな人が訪れる。これどうなってんだろな、とかHさんに質問しに来たりするおじちゃん達もたくさんいる。あまり大きくない町だからか、顔見知り同士が多い様子。
この人に話を聞きなと、Hさんが畜産農家のおじさんを連れて来てくれた。
おじさんは仙台におろす質のいい牛肉の業者さんで、海沿いに牛舎と畑と自宅を持っていたが、今は仮設に住んでいる。
津波の時、牛舎も1メートルの浸水。でも、牛達は首まで水に浸かった状態で2日間を過ごし、生きていた。うれしかったなあ、と目を細めるおじちゃん。
牛を育てる人は牛が大好きで、野菜を育てる人は野菜が大好きなんだよなあ、と言うことが伝わってくる。
でもな、放射能だけはなんともならん。この辺も福島と近いから、検査して大丈夫でも風評被害もあって、大暴落だ。牛を飼っているだけで借金が増えてしまう、大好きな牛が食べてもらえないかもしれない。どうしたらいいんだろうな。
おじさんはもう、泣いているみたいに見えた。

Hさんに御礼を言って役場を出る。
帰りがけに鳥の海で拾った誰かの免許証をどこに届ければいいかと訪ねる。期限が切れて数年経った免許証だったが、顔写真も入っていて、捨てるのも忍びなかった。
Hさんは、そうだな、俺が預かっておくか、と受け取ってくれた。警察に届けても受け取ってもらえないかもしれないものを、受け取ってくれた。とても優しい人なんだろうと思った。

お腹がすいたので亘理町内のマクドナルドへ。
ハッピーセットがどうのこうのと言いながらハンバーガーを食べていると、さっきの畜産農家のおじさんがお孫さんと一緒にソフトクリームを買いに来た。
孫が来てるんですよ、とおじさんはとても嬉しそうに言った。
また、来てくださいね。今度は牛舎を案内するから。

こういうふつうの優しいおじいちゃんが放射能で苦しんでいるというのは、とても嫌なことだと思う。
放射能はアスファルトからは流れて、土や体に堆積する。
おじさんの土の似合う朴訥な手と、放射能は似合わない。
そういうイメージのギャップがある限り、こういう事故は絶対に起こってはいけないし、起こってしまう可能性のあるものを使ってはいけないと思う。
単純な考え方だと笑われるかも知れないけど、そう思う。

その後、岩沼へ。
岩沼は名取市に隣接した市で、仙台も通勤可能圏内でベッドタウンとしての機能も持っている場所だ。
とても親切なボランティアセンターのスタッフさんがお話を聞かせてくれた。
この町の特徴?そうですね、特にはっきりしたものはないかもしれない、特産物とか商業も無い、でも、好きなんですよね。と本当に嬉しそうな顔で言う。
私は自分の住む町について話す時、どんなことを言うんだろう。

帰りの国道を走っているとauショップがあり、なぜかそこで小森の携帯を直す手続きをする。私は店内で待ちながら、少しスケッチなどをした。でも、何を描いたらいいか相変わらずわからなかった。

 9.4(10.4)

 

watari

 

亘理町の鳥海海岸、防潮林がなくなってとても風が強い。海岸には唯一五階建ての宿泊施設が残っているだけで周りには基礎のみの住宅しかない。休日というこ ともあってか仙台ナンバーの車で、変わってしまった景色を見にくる人も多い。津波の前は仙台から日帰りで釣りや温泉にくる人が多かったとのこと。

町役場では復興会議が行われるとのことで、たくさんの人が集まって来ていました。そこで、食料物資受け渡し口にいらっしゃった職員さんにお話を伺う。地震 があった日から一週間、物資が届くまで毎日二食ずつ避難所用におにぎりを握り続けたとのこと。最初にパンが届いた時とても安心したんです。

自宅は一駅先の海沿い。両親は地震の時畑仕事をしていました。母は地震の片づけに家に戻っていて無事でしたが、父は畑で津波にあって天国に行きました。仕 事に夢中なまま、いっちゃった。僕はテレビで仙台空港に津波が来たのを見ましたが、仕事があるので家の様子を知る事はなかなか出来なかった。

お話を伺っていたら農協のかた達がいらっしゃって、今から福島の温泉に行く!今みんなが福島を避けてっからよー、今年はみんなで福島に行くんだよ。じゃあな、がはははと笑いながら、あっと言う間に温泉行きバスは出て行きました。

役場の方と引き続き話していると、ちょっと相談があるんだけど、と仙台牛を育てている畜産農家のおじさんが入ってきました。うちの補償はどうなんだろうね、赤字だよ、赤字。自慢の牛が相場よりうんと安くしか売れないんだ。

うちは浜の近くで農家をやりながら牛を飼っているんだ。津波にあった時、牛は胸まで水に浸かってしまったんだ。だけどぎりぎり息が出来たし、食用の牛だか ら脂肪がたっぷりあったのもあってね、三日三晩冷たい水が引くまで、水の中で足をジタバタさせて体を温めてね、生きてたんだよ。びっくりしたなあ

生きてたのはいいんだけど、石巻から牛のえさを買っていたからね、工場がやられちゃってたからえさがずっと手に入らなかった。東京から福島、山形経由で餌を買って、やっと食べさせたんだよ。

でもね、放射能はどうにもなんないなあ。目処がつかない。どうしたもんかなあ。そこまでおっしゃったところで、うちは廃業だよ、と隣にいたご親戚の方がつ ぶやいた。この方も仙台牛を育てているという。採算とれないからね、牛はやめなきゃなんない。兼業のイチゴも塩水と放射能で土がどうしようもない

でもね、他に仕事はないからね、まだどうなるか分からないけどイチゴの準備を毎日してるんだよ。全部検査して出荷出来るおいしいイチゴが出来たら、亘理のイチゴ、食べてね。東京にも出荷してるからさ。

おいしい食べ物を作る事をとても誇りに思っているひとが、その仕事を続ける事が出来なくなっています。放射能は土の上に降り積もり、アスファルトからは流 れ落ちる。土が汚染されてしまえば、食べるということが汚染される。そうしたら生活の最初が汚染されるという事でしょう。それは全てに繋がること。

遠くまで来てくれてどうもね、と別れた後に立ち寄ったスーパーで再び畜産農家さんに遭遇。今孫が来てるんよ、と嬉しそうに笑っていた。家が流された人も家 族を失った人も仕事がなくなった人も、誰かのおじいちゃんやお父さんやお母さんだったりする。とても当たり前の事だけどとても身に沁みました。

(twitter@seonatsumi)