2011.9.5(2011.10.5 seonatsumi)

 

朝から今乗っている車(黒いシビック)に保険をかける手続きに行く。朝イチの飛び込みで車の保険にはいる人なんか滅多にいないようで、対応したお兄さんも驚いていた。シビックですね、これ外車なんですよ、と言われてびっくりする。私たちは外車に乗っていたのか。車がかっこいいので自分たちに似合わないなあと思っていたけど、これでいよいよ釣り合わなくなった感じがしてちょっと笑ってしまう。

石巻に向かう。
石巻は私達がほぼ初めてボランティアに参加した場所で、それ以来何度か訪れている。
ボランティアセンターのお話を伺う。
石巻の社会福祉協議会では震災前から津波の防災として、ズーズー弁で行うコントのような劇を町内会などで開催していたとのこと。
津波の怖さを地元の言葉で伝えるべく、極端な方言で劇を行い、爆笑の嵐だったという。
でもこれでは津波が実際に来た時、助からない人がたくさんいた。伝えられていなかったんだと思う。これからはもっと別の伝え方を探していく。地元にいる人間は、そう言うことを続けていかなきゃならない。伝えて、人が亡くならないようにしなくちゃならない。
若い職員さんがそう語っていて、頼もしいなと思う。
地元にいるひとが、伝え続けなきゃならないということを感じる。
いつまた震災があるかわからないけど、結局いつもここにいるのは、ここに暮らしている人たちなんだ。一過性のボランティアでは絶対に出来ないこともあると思う。
ここに住む人が、ここに住む人に伝えていかなきゃならない。

その後4月から何度かあっているおじちゃんに会いにいったけど不在だった。

移動して石巻市内の知り合いのAさんのお宅へ。ここは4月から5、6回は訪ねているんじゃないかと思う。私の学校の先生のご親戚ということで紹介していただいて、4月の頭に最初にお邪魔した。二階建で他の家よりすこしだけ高い位置にあるこのお家は、一階の床上一メートルくらいまで津波が来ている。

最初に訪ねた時おばちゃんは涙ぐんで、こんなところまでよく来たね、ありがとうありがとうと迎えてくれた。
家の前にはぺちゃんこに壊れた車がたくさん積んであって、玄関のドアもほとんどベニヤ板一枚のようになっていた。よくこの家が残っていて人が暮らしているなと思ってしまった。
居間に通されると、床には青いビニールシートと簡易的なフローリングマットのようなものが敷いてあって、周りのものはとりあえずという感じで部屋の隅に積んであったりした。
ご近所に住んでいてお家が流されたというKさん一家も一緒に暮らしているということで、居間にはAさんご夫婦、ご両親、Kさんご夫婦、Kさんの息子さんがいた。
外の景色からは想像出来ないような、食卓の風景があった。
会話の中にある津波はテレビの報道よりももっと残酷なものなのに、そこにある雰囲気は明るい。おばちゃん達は、大したものないけど、て当たり前よねえ、なんて冗談を言って笑いながら料理を振る舞ってくれた。

そこから五ヶ月の間にお家の前にあったぺちゃんこの車達や流れて来た色々なものはどこかに片付けられ、道路もきれいになり、玄関やお風呂、キッチンはぴかぴかの新品になった。
おばちゃん達もほぼ平常通りの仕事が始まって、Kさん一家は仮設に移った。
それでも町内会がきちんとしているのもあって物資の配給が今も毎日あって、食卓の半分は物資だったりするので、ここが大変な被害があった場所だということを思い出す。
もう、目で見ることで何かを想像することは難しい。
はじめてこのお家を訪ねたら、ここがどういう状態にあったかはわからないだろうと思う。

おばちゃんに、役所に提出するために撮影したという津波翌日のこの家の様子の写真を見せてもらった。大抵の家で撮影しているらしい。
庭には車が5台ほど流れ込んで来ていて、居間の中もめちゃくちゃだった。家の外と中の境界線が、もう無くなってしまっているみたいだった。
この庭に入って来ていた軽自動車にね、遺体が入っていたのよ。この近所で6体、7体、だったかしら、見つかったの。
この家の中にもね、人が流れ込んで来たの。
私達必死で2階まで早くあがんなさいあがんなさい、と言ってずぶぬれのその人を引き上げて、それからしばらく一緒に暮らしたのよ。
私達が最初に訪ねた時もそこまでのことは想像出来なかった。
話では聞いていたけど写真を見て納得した。確かにこれは、こういうことなんだ。

きれいになった居間で、たくさんの児童が亡くなった石巻市内の小学校のドキュメンタリーを見る。
かわいそうねと涙ぐむおばちゃんがいて、でもその様子は自分の目の前にあった津波というよりテレビの中の悲劇のようで、東京の居間で私の家族がそれを見ているのとあまり変わらないように思う。
当事者というのは、自分のほんの身の回りでしか成り立たないものかもしれない。それは良いとか悪いかというよりそう言うもので、自分のわかる範囲への共感と、わからない範囲への共感は別次元にあるような気がする。自分の体で取り入れた感覚と二次的な情報とを混同しそうになることもあるけれど、多分根本的に全く違う。
テレビを見ている中でおじちゃんが、この人知っているかもしれん、と呟いた。子供を捜すお母さんだ。おじちゃんは少しため息をついていた。

おばちゃんの話で、ここにいるとずっと震災の中にいなくちゃならなくてしんどいから、ときどき何も被害がなかった場所に行って空気を吸うのよ、というのを聞いた。ここにいると景色もにおいも話題も、それが中心になる。でも、そればかりでは暮らしていけない。忘れるということは生活を押し進める上で絶対的に必要なのだと思う。
家の周りが片付いて、夏になって草が生えてくると徐々に町の人達が元気になって来ているのがわかった。目に見えなくなること、匂いがしなくなることで、忘れられる時間が出来たのだろうと思う。

忘れて生活を続けることと、この大きな震災で起きたことを伝え続けることを両立がどんなに難しいか。
きっと、今までもそれは繰り返されて来たことだ。
地元の人が伝え続けるということは一番必要なことだと思うけど、それをすべてそこの人だけでやるのも辛いことがあるように思う。
特にいまそのただ中にいるひとに、これをよく覚えておくように、なんて言えない。
少しでも手伝えることがあったら手伝いたい。
私達は表現について大学で学んで来たけど、伝えることが本当に必要なときってこういうときなんじゃないか。未来にも、この東北の外にも、伝えるべきことはたくさんある。今ここで起きていることを見ないで、何が伝えられるというのか。
自分が出来るかわからないけど、よく覚えておかなくちゃと思う。
何も知らないでいようとすることが一番不自然だと感じる。

まだ畳がそろわない広い和室に暖かい布団を敷いてもらって、ゆっくり寝た。

 

 9.5(10.5)

 

ishinomaki

 

今日は石巻のお知り合いのお家にいます。4月から何度かお邪魔していますが、お風呂や玄関・畳が新しくなっていて、半分新築のようです。でも大工さんが忙しいので少しずつの工事になり、全部完了するまでには年内いっぱいかかるとの事。

市役所に提出する書類に添付されていた津波直後の写真を見せていただきました。庭には数台の車、家屋の材木、農家の倉庫などいろいろな物が押し寄せてい て、家の中も泥が堆積していました。写真で見る限りここにはもう住めないんじゃないかと思うような状態でした。でも今私はここで布団の中にいます。

半年という時間でが立とうとしていて、いま目に見えることからは分からない事、想像のできない事がたくさんあります。それはきっと時間が立つごとに増えて いくと思います。いま、あのときこうだったんだよ、と話されていることの中に、残していかなきゃいけない事がたくさんある気がしています。

 

(twitter@seonatsumi)