2011.9.6(2011.10.6 seonatsumi)

朝、石巻のAさんのお家で目覚める。
朝からたっぷりとしたご飯が出てきて満腹になる。
Aさんのお家は日差しが入るととても気持ちのよい家で、おじいちゃんとおばあちゃんが畳でごろりと寝転んでいるのがとても良い感じだった。

教習所で働くAさんちのおじちゃんに運転を指示されながら、津波で自宅が全壊してしまってしばらくAさんのお家に暮らしていたKさんが住んでいる仮設住宅に向かう。
はじめて仮設の中に入る。少し、緊張する。
関係のない人が入って大丈夫なのだろうか。
とても失礼な話をすると、私は最初、病院にお見舞いに行くようなきもちだったように思う。悲しい出来事を抱えた人たちが集まる場所で、悲しみの中で暮らさなくてはならない場所なのではと、勝手に思っていた。
海に近いその場所は、Aさんのお家から5分ほどのところにあった。
あー、よく来たねえ!おはよう!
入るなりKさんご夫妻が迎えてくれた。Kさんは仮設の敷地のはじっこにある木製の立派なテーブルといすを指差しながら、これねえ僕が作ったんだよ、と自慢げに言った。このいすはご近所さん達の集まる場所になっていてるそうで、みんなが持ち寄った花とか小さな盆栽なんかが飾ってある。

Kさん達のお部屋にお邪魔する。
部屋の中は思ったよりもものがたくさんあって、そのどれもがKさん夫妻らしくこまごまとかわいらしくて、よく選ばれたもの達だと思った。
聞いてみると、家は全壊だったけどね、中のものは数メートル移動しただけで使える状態で残っていたの、とのこと。
ほら、これも。といいながら小さな急須で渋い色の湯のみにお茶を注いでくれる。
これも洗ったら使えるのよお、捨てちゃえって思ったけどね、もったいないから使ってんのよ、と笑う。
Kさんご夫妻は手芸や工芸品を作ったりするのが趣味らしく、手作りの小物がたくさん飾ってあった。テレビの前には松ぼっくりで作った亀のブローチがたくさん置いてあって、ひとつずつ着けていきな、といって私達にくれた。
私は、緑色のラメが付いた亀を着けた。小森は確か赤だったかと思う。
仮設というだけでとても無機質な印象があったけれど、そんなことはなかった。
人が住めば、その人の場所になるのだ。素敵な部屋だと私は思った。

Kさんのおじちゃんがデジカメをテレビにつないで津波の被害の写真をみせてくれるという。
なれた手つきでカメラをセッティングすると、最初に花巻の方へ旅行に行った時の写真が映った。どうも時系列が逆になっているようだ。
これが、花巻まで行って、吊るし雛の展示を見たところです!
天井からつるされた色とりどりの飾り達が画面にいっぱいに映っているのを見て、これねえとってもきれいに出来ているんだよねえとおじちゃんは嬉しそうに言った。しばらく吊るし雛が続いて、その後山形で奥さんと散歩した写真があって、津波の被害があった石巻の写真になった。
さて、いよいよですね、とおじちゃんは言った。
一枚ずつ丁寧に見ながら、写真を送っていく。写真自体は、私にとってはもうどこかで見たことがあるような津波のあった石巻の様子だった。でも、おじちゃんにはそこを写す理由があった。ここは僕んち、ここはいつも通ってた道、亡くなった友達んち。
写真を見る目、目を構成する記憶、私にはないものだった。
津波の写真が終わると、また最初の吊るし雛を見に行った旅行の写真に戻った。
Kさんご夫妻に旅行に行く元気が出て、本当に良かったと思う。

その後、Kさんのお向かいに住んでいるおばあちゃんのお家へ。おばあちゃんのお家は趣味の飾り雛でいっぱいだった。(仮設で飾り雛の教室があって、今特に流行っているらしい)
おばあちゃんは津波の前まで旦那さんと暮らしていたけど、旦那さんは避難生活から痴呆が悪化してしまったため老人ホームに入っているので、離ればなれで暮らしている。旦那さんは腕のいい舟飾りを彫る職人さんだったそうで、居間にたくさん飾ってあった。
おばあちゃんは吊るし雛のパーツやオリジナルの型紙を見せてくれながら、
去年はね、もっときれいなの、作ったの。でもね、それもみんな流されちゃったの。
会話の語尾に、流されちゃってね、今はもうないのよ、が付いてくる。
こうやっておひな様作ってる間は、悲しいことなんにも考えなくてすむのよねえ、と言う。
おばあちゃんは寂しい寂しい、といいながら私達にお孫さんの写真を見せてくれる。とても優しそうな女の子だった。お孫さんは東京に住んでいるという。
津波でお家が被害にあって仮設に住んでいるおばあちゃんがいる、東京の同い年くらいの女の子。ふるさとが東北にあるけど、東京に暮らしている人はたくさんいるんだよなあ、と思う。やっぱり、とても身近な出来事なんだと感じる。
おばあちゃんはお孫さんが買って来てくれたというバウムクーヘンを振る舞ってくれて、それが私の家の近所だったりして、距離感がぐるぐると伸縮していくみたいだった。

Kさんのお家に戻ると、いつの間にかKさんご夫妻とAさんのおばちゃんも松ぼっくりの亀をつけていて、亀軍団だなあ、とか言ってみんなで笑った。

その後、避難所へ。Aさんのお友達のHさんご夫妻にお会いする。
避難所は薄暗くて、一世帯二畳ずつ、とても低いしきりで分けてあった。おのおの眠ったりおしゃべりをしたりして時間を過ごしているようだった。
ここに半年もいるのを思うととてもしんどいように思うけど、おばちゃんは、みんな親切だから何も辛くないのよ、と笑った。
Hさんご夫妻もとても明るい方達で、Aさんのおばちゃんと三人でいると終始コントのようだった。今度小さなアパートを借りて、暮らしをはじめるという。
引っ越したらミートソースを振る舞うわね、と言ってくれた。

Aさんが町内会の物資配給の当番だということで少し急いで移動。
Aさんはとても素敵でかわいい感じのおばちゃんなんだけど、軽トラをやや強引に、軽快に運転していて、やっぱり逞しいなあと思う。

津波で遊具がぐにゃぐにゃになった公園のすみっこにテントが張ってあって、そこに今晩の物資が並んでいる。ちょうど給食当番がおかずを一品ずつお盆に載せていくような感じで、町内会の人達が列になって物資をもらっていく。
お弁当、菓子パン、レトルトのおかず、ペットボトル飲料、パックのお茶、ジュース、果物、を各世帯の人数分配っていく。
町内会長さんとお話する。
この地区の会長だけど、今は車で20分ほどかかる仮設に住んでいる。自分の家があった土地はもう危険区域になるだろうから、住めない。でも、ここにいるひと達と、また町を作りたいんだ。
会長さんは寂しそうだけど、力強く言った。

なんでまた、ここに住もうとするんだろうと思う。
建物はめちゃめちゃに壊れて、地盤は沈下して、また津波が来たらもっと大きな被害になるかもしれない。そんな危ないところに、なんで?と。
でも、自分を構成しているものをとてもシンプルに考えた時、ここにいる人達、ここでしている仕事、ここにあった景色、がとても大きいんじゃないかと思う。
生活の大半は身近な場所にあるものだ。
身近な場所を広範囲に点々と持つことは可能かもしれないけど、結局目の届く範囲のことが、自分を作っているように思う。
いま、津波があった後に手元に残っているものを大切にしたいのは、ごく自然な考えなように感じた。

暗くならないうちに出発しなさい、と言われて仙台に向かう。
夜になっても明るい仙台で、好きなバンドの新譜を買う。初回得点のDVDまでもらってしまって、なんだか不思議な気分になる。
CDはとてもよかった。

 

 9.6(10.6)

 

ishinomaki

 

今日は石巻の仮設住宅、避難所、物資の配布会におじゃましました

仮設住宅のお家の中にはじめてお邪魔しました。暮らし始めて3ヶ月目の仮設は、お宅ごとの暮らし方が見えて来ています。趣味の手芸品をつるす人、盆栽に興 じる人、犬や猫をたくさん飼っている人。仮設で出会ってお茶飲み友達になって一緒にお出かけしたのよ、なんて話も聞きました

毎日毎日忙しいの、ボランティアさんの手芸教室や移動スーパーが市場をやったりね。そう言いながら一人暮らしのおばあちゃんは、習った吊るし飾りを見せて くれました。こうやってるとね、津波で全て失った事も忘れるでしょ。思い出の品の話をする度「それも全部流されちゃった」が語尾に付くのでした。

津波のあと気持ちが参っちゃって、主人は老人ホームに入ってね。私もノイローゼになっちゃって。大変だった、いつも呆然としてたのよ。でもここに来てから ね、元気になったねって孫に言われて嬉しいの。仮設のはじっこに作られた手作りのテーブルに住民が集まって来て、たくさん話をしていました。

お庭に遺体が流れ込んで供養をしたというご家族、仮設に入れず避難所に6ヶ月住んでいるご夫婦、一帯ほとんど全壊してしまった町内会、今ではその場所にたくさんの笑い声があったのもひとつ本当の事です。でもそれぞれが抱えている問題は一枚めくるととても大きい。

復興に向かうんです、力強くおっしゃった町内会長さんのお家があった場所は危険区域でもうお家が建てられない。今は車で30分走った先の仮設に住んでいて、仕事場も流されたから仕事もない。

私は、なんで津波が来た同じ場所にまた家を建てようとするんだろう?と思っていました。でも話を聞くうちに、暮らして来たその場所に、そこにご近所さんや お得意さんがいるから、たくさんの物を流されたあとでも津波の前の生活を思えるし、自分を続ける事が出来るんじゃないかと思うようになりました。

ほとんどのお家が流された町内会、失った物も大きいけど、絆が深まったことで得た物もたくさんあるよ、と笑うみな さん。でもひとつ問題があるのは、乳幼児を育てている家が一軒もなかったこと。町内会の中心は50代60代以上の年齢。復興まで私達生きてるのかしらね、 と笑う。
あなた達は若いからなんでも希望があるのよ、頑張ってね、有名人になってかえって来てね、いつもたくさんたくさん励まされてしまう。

(twitter@seonatsumi)