2011.9.10(2011.10.10)

仙台の宿で目覚めて、車に乗り込む。
はっきりとした行き先が決まっていない。
仙台近郊のボランティアセンターに、お話を伺えないかと電話交渉をしながら、とりあえず北上する。
当日にアポを取るのは無茶だよなあと思いながらも、今までずっと飛び込みでインタビューを取らせてもらってたから何とかなるかと思ったけど、そう甘くはなかった。
今も現場で活動している所では時間があいていればその場でお話を伺えるけど、ボランティアの募集も収束しているところでは通常業務と復興支援とで忙しいと言われてしまう。
それはそうだ、想像するだけで忙しい。
それに、現場を離れれば現地と言えども通常業務に追われるのだから、学生が取材に来た所で価値も感じないのだろうなと思う。現場には、現場から伝えなくてはと言う熱がある気がする。
だからってそれに甘えているのは、良くないと反省。
でもそうじゃなきゃ聞けない話もあるし、それには価値があるとも思う。でも、反省。

結果何カ所か断られた後、名取でお話を伺えることになる。

時間があいたので荒浜へ。仙台市内でとても被害が大きかった場所だ。
訪ねてみると地図上にある町一帯が、だだ広い草はらに四角い白い塊を丁寧にを並べたような、そんな景色になっている。
四角い白い塊は、そこにあった住宅が、津波で流された後に残った土台だ。
土台の下もえぐれてしまって、それがまるで宙に浮いているようになっている場所もある。なんだか、何を見ているのかさえよくわからなかった。

車を降りる。
よく見ると白い土台のひとつひとつの一角に風呂場のタイルが残っている場所があって、ここが住居だったことがやっとわかる。
すると急に、ここに人が住んでいて、きっと、ふつうにそれぞれの環境を抱えて暮らしていたんだろうと思うようになる。
ここにいた人はどこでどうしているのだろう。
海岸の方から工事の音が聞こえてはいるが、住宅街だっただろう場所は見渡す限りそのような景色で、人は誰も見かけなかった。
町の至る所に新しい花が手向けてあるのをたくさん見た。だれかがここを訪れて、大切な人のことを思っている。

名取市へ。
Kさんは震災のあった3月末付けで定年になるはずだったが、それが延びて今も休み無く働いていると言う。こちらに来てそう言う話をよく聞く。
名取市の中心部と言われる所は沿岸部ではなかったため、市の機能自体が駄目になると言うことは無かったけれど、たくさんの人が亡くなった。
名取市は仙台市に隣接しているのもあって、どんどん発展している町だった。でもその一方で、町内会などでの防災の知識も甘かった。

新しい町ではたくさん人が亡くなっていると思う。
逆にその土地に長く根付いて生活している町は、亡くなる人が少ない。
それにはきっと人との関わり方の違いが一因としてある。
小さなコミュニティが時間をかけて形成されていれば、日頃から防災について考えて備えることもするし、震災の起きた時声を掛け合って避難をすることも出来る。
都市型の隣近所をよく知らないような場所で、自分だけの判断で一目散に逃げることは、きっと勇気がいることだと思う。
一緒に逃げてくれる人がいれば、一緒に考えてくれる人がいれば、とっさの判断に自信が持てる。
例えばいつも通り電車に乗っている最中に、自分の直感を信じてすぐに高台に逃げるなんて、そんなことが出来るだろうか。わたしだったら周りの人が慌てたそぶりを見せなければ、私もそれをまねて動こうとしないだろう。大したことないんだろうと考えようともしない。
自分ひとりで判断することはとても難しい。
きっと根本的に、ひとりよりも誰かといて関係を築いている状態の方が、良いんだと思う。
当たり前のことかもしれないけど、そう思う。

その後七ヶ浜へ。
ボランティアセンターに伺うが、時間が遅かったため人に会えず。
海辺にあった町は、高台に建てられたものは全て残り、低い場所の建物はほとんど全てが流されていた。
その、ほんの十メートルの差で、違うのだ。
例えば、普段坂を登るのが不便だからなんて言う差で、家や人を失ったりする。
日常生活が忘れさせるものは、とてもたくさんあるように思う。
もちろん忘れるべきこともあるけど、忘れることで命を失うこともある。

仙台に戻る。
小森の友人が今日の夜から合流する。
彼は4月からずっとひとりで沿岸をまわって映像記録をしている。ひとりでそれを続けることは本当にすごいと思う。
彼とKさんと合流し仙台のネオンが光る町中でご飯を食べたあと、31アイスを食べながら歩く。
沿岸と仙台の往復は頭がこんがらがる。一日という単位が不安定になる。
次の日は朝早いので、宿に戻ってすぐに寝た。

 

 9.9(10.9)

 

 

arahama

 

荒浜はいつも名前を聞いていましたが、今日初めて訪ねました。海の近くの住宅地は広い一面に土台だけが残っていて、その光景は少し久しぶりに見た感覚がし ました。時間を追って壊れた住宅地が更地になっていくのを見て来ましたが、そこはその流れから取り残されているように感じました

土台だけになった住宅はただ白いコンクリートの四角い塊で、そこがどのような場所だったか、そこにどのような生活があったかを想像することが難しい。で も、四角の配置でそこに町があったことがわかります。緑色の大きな草はらに小さな四角い塊が丁寧においてあるような景色。町があったということ。

忘れないために、ということが誰が何を忘れないことなのか、ということを考えます。また災害が起きた時にひとが命を落とさないようにすること、それが一番 にあると思います。その方法が堤防を作ることなのか、その危険を伝承することなのか。忘れないことは、きっと伝え続けることに繋がる。

景色や生活を変える堤防や町作りをすることが、そこにいる人にとっての一番の安全なのでしょうか。それよりも自分の耳で聞いた事の方が分かることがある。 堤防は壊れることがあります。町が高台にあっても海にいることはあると思います。その時どうするか判断するには知識のリアルさが必要なのでしょう。

twitter@seonatsumi