小森はるか+瀬尾夏美 個展
「遠い火|山の終戦」
会期:2016年11月12日(土)- 12月11日(日)
Open:土・日・祝 13:00-20:00/木 15:00-21:00
*初日のみ 19:00-21:00
*1 2 月 9 日 (金) 15:00-21:00
*最終日 13:00-17:00
Close:月・火・水(11/23祝は除く)・金
入場料無料(イベントは有料)
展示会場:路地と人 東京都千代田区三崎町2-15-9 木暮ビル2階
アクセス
JR水道橋駅西口より徒歩3分
お問い合わせ
路地と人(片桐)rojitohito@
会期中イベント
小森はるか+瀬尾夏美|オープニング・トーク
11月12日(土)19:00- (参加費 500円)
トークイベント
12月9日(金)19:00- (参加費 500円)
登壇:山本唯人氏、小森+瀬尾
ゲストプロフィール
山本唯人氏 1972年東京生まれ。専攻社会学(都市研究、空襲・災害研究)。青山学院女子短期大学助教、東京大空襲・戦災資料センター主任研究員。
「遠い火|山の終戦」によせて
岩手県陸前高田市と宮城県伊具郡丸森町を中心に訪ね、終戦の前後についてのお話を聞いて歩いた。なぜ終戦について話を聞いたのかと言えば、あるおじいさんに出会ったとき、彼が「話したい」と言ってくれたからである。彼は、宮城県の山間地、伊具郡丸森町の人であった。
彼に、なぜ私たちにそのことを話したかったのかと問うと、
「俺が今にいねぐなるとす、戦死しった兄貴のごどを知っでる人が誰もいねぐねってすまうがらねゎ。それが悔すぃ。」
と言う。死者について語る人に、津波のあとの陸前高田で、幾人も出会った。語りとは、今は存在しない人間を別の誰かの中に生きさせるような行為、あるいはそのような願い、かもしれない。
そ のようなきっかけがあって、おじいさんの話を聞いた。おじいさんの話を聞いていると、当時少年だった彼の姿が目に浮かぶようだった。幾度となく思い返 し、語っているからだろうか。彼はまるで、ひとつひとつを追体験しながら、目の前に浮かんでいることを、ことばで描写していくように話した。70年経って も鮮やかな記憶の地点が、そこにあった。そのような地点は、大きな出来事の周りに点在するのかもしれない、という予感がした。その後、終戦の前後の記憶の ある人(そのくらいの年齢の人、とも言える)に出会えば、ちょっとしたお茶飲み話をゆっくり聞くようにして、そのなかで、その頃の話を聞くようになった。
私たちが今回主に話を聞いた2つの土地は山間地(陸前高田にも山際の集落がある)であり、お話を聞かせていただいた方々の年齢層も自ずと近しくなってくる。
すると、共通点と言えそうな事柄が、ふたつ浮き出て来た。
ひ とつは、お別れの風景。兵隊さんを見送った光景、その場所。その多くは、駅やバスの停留所であった。山間地のちいさな集落では、直接的な戦火は見えな い。けれど、線路の先、道路の先に、出征していく兵隊さんの姿が消えていったとき、戦地は確かに地続きであるということ、彼らがもう会うことも出来ない遠 い存在となる可能性を強く思うのだ、と。またそれらの場所は同時に、戦死者の遺骨を迎え入れる場でもあった。
お話を聞いたあと、時間があれば、お別れと迎え入れのその場所に連れて行ってもらった。風景は70年の時を経て、確かに変わる。けれど、必ずどこかにその姿の片鱗を抱えている。思い出して話すという経験によって、彼らの目は、それを風景から探すようになる。
「ああ、ここだここだ、確かに残っていだったねゎ。」
彼らは、それを見つけては、目を細めていた。
も うひとつは、彼らは幼少期に体験したそのことを、70年の間にさまざまな立場に立って、繰り返し体験し直しているということ。自分が母親になったとき、 教師になったとき、孫を持ったとき。年を重ねるごとに、あのときあの人はどう思っていたのだろう、ということを考える。例えば、軍国少女だった自分が、出 征する兄の姿を見ながら泣いている母親を叱責した、というエピソード。その後ガラリと価値観が変わった社会で思春期を過ごし、自分が母親になったとき、改 めて、子を戦地にやる母親の気持ちを思う。当時の自分を全否定する訳でも、母親への怒りがすべて消える訳でもない。でももう一度思い返して、立つ場所を微 妙にずらして、辺りをじっと見直す。(戦後、とてつもない価値観の変化をどのように受け止めましたか?と問うたとき、彼女はこうも答えている——「人間は 思うよりもたくますぃもんだ、というごどさ。昨日までのことが全て嘘だどなって世界が変わっても、それに合わせるもんなのさ。何よりかにより、生きていぐ こと、だから。思想どか価値よりも、生ぎるごどがあるからねゎ。」——そのうえで、と言うことなのだと思う)そして、語る。幾度となく更新され、変化をし 続けているであろう語り。いま私たちが聞かせてもらっている語りは、いったいどういうものだろう、とも思う。誰の、実際の、ということが本当の問題なので はないだろう、という直感がある。そして、彼らが更新して来た語りが孕むズレのようなものにこそ、他者が過去を想起し得る余白がある、とも思う。
私 たちが出会えるのは、現在にある風景と語りでしかない。そこから、かつてのことを思い浮かべる方法として、いくつかの語りと目の前にあるいくつもの風景 から、点在するようにある視座を得て、辛うじて像を結んでいく、ということがあるような気がしてならない。史実を記録し直したい訳ではない。誰かの主張を 助長したい訳でもない。かつてそこにあった風景を、いま、見たいと思う。その像が結ばれるような場を、つくりたいと思う。その像はおそらく私や、鑑賞者の 身体の中で結ばれるべきものである。ズレをゆったりと孕みながら。
鮮やかな記憶の折り重なりの先にある風景は、いったいどのようなものだったろう。語りによって手渡された何やら大切なそれを、出来るだけ精確に誰かに渡せる方法を、その地点を、と思う。
2016/05/21
小森はるか+瀬尾夏美