Kさんの話していたことと

さみしさについて

4月の訪問/

友人に送りたいと思って、写真を撮らせてくださいとお願いした。

おばちゃんは、こんなめぐさい(かわいくない)格好で恥ずかしいわと言いながら、

流されたお隣さんのお家の前に立った。

 

 おかげさまでうちはね、この通り、残って。でもこんな風になってしまって、びっくり

するでしょ。この黒い屋根は親戚のうちのなのよ、ここさまで流れてきたのよ。この家は

ラーメン屋だったんだっけ。車はその隣の家さの車だったのよ。それがこうして一緒にう

ちの隣まで流れて来てしまったんだもんねえ。ここはこうずっと田んぼだからあれだけど

も、それでもここいらに40、50、60ぐらいかな、家があったんだけども、みんな流れた

のね。1戸か2戸かしか残ってないの。色々あったんだけっどね、床屋とかなんとか、みん

な流されたんだよ。結局ね、こっちから行った波と、あっちの沢から行った波がドオンと

ぶつかって、あっちさ流れてこっちさ流れていったから、広く広く行ったのさ。あっちの

山まで行ったんだもんね。なんにもないとこ、全てが行ったのよ。


 みんな津波を見たんだってね。何mもある黒い煙がもうもうと出てきたと思ったら、そ

れがスーッと来たんだって。私は津波来ると思わないから家にいて、じいさん帰ってきた、

お母さん帰ってきたって、ああ帰ってきたって、安心したったのよ。そしたらね、すぐに

津波だったの。だからね、安心した途端に目の前の家の人が、津波が来た来たーって走っ

て行って。そこさの土手のとこまで来たんだよ。そこまで行って、引き潮になったのよ。

だから本当に危なかったんだね。だってそこまで行ったのよ、そこに木があるでしょ、そ

こまで行ったんだもんね。で、こっちの家の方だけ避けて、で、あの道路まで行ったのよ。


 

 高田の町は全てを失ってしまったんだ、だから全てが大変なのよ。やっぱりなんていう

の職業を無くしてしまったでしょ、だからみんな、私も灯油買いに立ってた(並んでた)

時にさ、隣さいた人言ってたっけ、職場も失って家も失って、これから子ども抱えてどう

したらいいんだって。どうやって生きていこうかってことが問題なんだっけね。私もいっ

ぱい友達亡くしてしまったの。でも津波の後はね、涙も何にも出なぐなってしまった。そ

れでもこのごろやっと落ち着いたら、あーって悲しみが出てくんのして、なんで私が生き

残っちゃったのかなあって、思うの。いつ復興するのかなあって考えるでしょ、10年、20

年、私が生きてるうちに復興するんだかもわかんね。無事だったってことをね、喜んでば

り(ばかり)もいられね、悲しんでばりもいられね。本当にね、大変な世の中になっちゃ

った。


 

 家にいればほら見えないでしょ、この瓦礫が見えないでしょ。でも一歩外に出れば見え

るがら、私が生きているうちに復興すんだかなーって思ったりして。でもみんなの世話し

てればね、いくらか気も紛れるから。うちはこうしてね、水も出るし電気も出るから、み

なさんに却って申し訳ないくらいなの。して、私もほら、内陸に親戚があるから、食べ物

でも何でも送ってきてくれるでしょ。そのうえこの辺の物資ももらうから、本当にね、申

し訳ないくらいなの。この辺はみんなそうなんだけど、近くで行ったり来たりして結婚し

てるでしょ、この大船渡、住田、高田で行ったり来たりしてるから、意外と親戚がみんな

やられたりしてるのよ。お母さんの会社の人もね、親戚もみんな流されてしまって、家も

流されたし、仕事場も流されたし、本宅も流されたって。


 あんたごめん、暗くなるな。暗くなると怖くなるから。この辺電気が点かないから。私

もその、すぐそこの所で人と話をしてたら暗くなって、怖いからって、次の日送ってもら

ったのよ。結局前が暗いから。目の前が暗いって怖いもんね。そしてまだこの辺で見つか

らない人もいるから。だから片付けようにも片付けられないんだかもしんね。この辺の部

落でまだ6人くらい見つからないから。ここで流れた人があっちさ行ってんだもの、あっ

ちさ行ったりね。本当に津波はおそろしおそろしおそろし。


 

 あとね、私はね、ここいら辺さに流れてきている写真をね、知ってる人の写真を洗って

おいたりしてんの。でも拾って持っていったなんて思われんのも怖いからね。それもまた

大変なことなのよ。どう思われるか分からないもんね。大変なんだよ。本当に本当に。こ

れからどうするかってね。

 

 あんたら暗くなるから早くいった方いい。さっきも言ったようにね、あっちさの道をず

っと行けば、高田の町にでるから。高田の町はもっとね、もっともっとすごいって。私は

怖くて見ないんだ。本当は海なんかもっとあっちなんだから。なんだか近ぐなったみたい。

ここがら海見えると、とってもとっても落ち着かないんだ。

 

 ありがとうね、また復興したら来てくださいね。とってもきれいな町だったんだよ。

(2011.4.6.wed)



















町が流されて、人が流されて、それと引き換えに置いていかれたさみしさが結合していく。

それが町全体の景色を覆っている。それは大きな塊で、中身はがらんどうで、少しだけ宙に浮いて存在している。

色は、薄く青い。ビニールで出来たビーチボールの、巨大なものを想像して欲しい。素材はもっと薄っぺらで中と外との

境界は曖昧なのだが。

友人の親戚のおばちゃんがその町に暮らしていると聞いて、そこを訪ねた。

すこし高台にある、おばちゃんのお家から見たそれは、地面すれすれに浮いていて、上部は私の目線くらいにあった。

大きさは、そこから見える景色を全て覆うくらいに膨れ上がっていた。

ここは扇型の地形で左右が小高くなっており、少し低い場所には住居や田畑があったという。

右から来た波と左から来た波がドオンとぶつかったの。おばちゃんは手をパチンとあわせた。

それでね、全てを攫っていったのよ。

そして、その波が置いていったものが、この巨大な体積を持ったさみしさだろう。大きさは正確にはわからない。

おばちゃんはその時、その塊の中に頭からおへその上の高さあたりまで入り込んでいた。

体の半分近くがそんなものの中に入ってしまって身動きしづらくないのかな、と思ったけれど、

それを聞いたらこの巨大な塊がパチンとはじけて、また大変なことが起きてしまう気がした。

さみしさがお互いに結合しあって塊として存在しているから、

この町はこんなにも静かに、このような状況でも営まれているのだろう。

ちなみに私はそのさみしさの中に入ったことは一度もない。入ろうとしても入れないのだろう。

5月の訪問/

     








日用品も車も家も舟も食べ物も、何でもかんでもごちゃ混ぜになって、

長い時間をかけて積み上げてきた秩序のようなものを、全て無くしてしまった町を歩く。

倒れてしまったものを立ててみる、ばらばらになったものを並べてみる。

そういう少しずつのことで、まちまちなスピードで、町が出来ていく。












 

りんご畑には色んなものが落ちていました。お茶碗、食器棚、車、まんが、調味、靴、お菓子、写真、ハガキ、

書類、エロ本、流木、自転車、船、倉庫、椅子、サインボール、鍋、建材、樽、魚、セーター、 水着、ランドセル、

洗濯機、キーホルダー、カード、財布、ぬいぐるみ、カバン、ガラス、鏡、画材、、            












  


 でもさ、夢みたいだ。まだ夢みたいだけども、ここに来れば現実がこうだからね。私も

そこの裏道を通って2ヶ月通ってたでしょ。だから世の中あんまり見てなかったのよ。直

売所のある避難所とうちばり(ばかり)2ヶ月往復してたからね。だから何にも知らない

でね。一回ね、お父さんに連れていってもらって、ぐるっと高田の町見てきたけど、どこ

がなんだかわからないのね。キャピタルの方さ行ってきた?キャピタルってね、キャピタ

ルホテル1000って言って、そこが7階建ての唯一のホテルだったの。そこの3階まで波が

行ったっていうから相当の高さだね。市役所もほらね、すごいしね。本当に説明してもら

わねば、見た町住んだ町なんだけども、わかんなくなったのね。地下が沈んだために海が

広くなったんだよね。キャピタルの後ろは沼だったのよ。古川沼って言う沼でね。そして

松原があって、そして海だったのよ。そこがなくなってしまったからね。驚いてしまう。


 私は津波見ないんだ、ここにいたから。あ、来たってのだけ見たでしょ。みんなは最初

から見たんだって。最初からね、越えてくるのが見えたんだって。だから自分の家にも来

ると思って高台さ逃げたっていうもの。それをね、あとでテレビで見て驚いた。そして速

かったのよ。あーっという間に家から何から一斉に流れてきてね。でも私ひとつも見ない

んだよ。そしたらあんた見ない方が良かったよ、って。一瞬のうちにね、あっという間に

渦巻いたようにしてきて、あっという間に引いて行ったって。時間に余裕がなかったから

亡くなった人も多かったんじゃない。私は見ないからそんなのだと思わなかったのよ。


 私チリん時(チリ津波の時)はこっちにいなかったんだけどね、そんなにここまで来な

かったんだって。うちにも水入らなかったって。だから私は津波ってのは始めてでね、聞

いてはいたけどね。おかしなことにね、私津波が来るっての頭にねかったのよ。お父さん

帰って来た、お母さん帰って来た、それで外に出たの。あとは家の中の割れたガラス片付

けたりしてね。そしたらここまで来てたんだもんね。引き潮も速かったからあの家流され

たんだよね。あーうちももうだめだって思ったら引いたんだもんね。あ、来た、行ったっ

て感じでね、本当に速かったのよ。ざぶーっとあそこまであがって側溝に流れたから、本

当にうちをよけたんだね。ななめにね。よかったよ。ね、大変な世の中になっちゃった。


 随分車も渋滞になってしまったようだからね。走るのが一番いいんだかね。でも走って

も波速かったっつうもんね、追いかけられて。みんなあそこにあがったんだって。あの高

台の道路さに。あの道路で助けられたっていう反面、あの道路を作るってことで、下のと

こさに建てて流された家もあるし。まだ建てて10年だって。あそこの家も道路を作るため

に建て替えたんだ、そしたら流されたから。

 とにかく私は出たくないのよ。ここを離れたくないのよ。うちの娘が嫁いだ遠野のお家

もね、いつでも来て下さいって招待してくれるんだけど、なかなか離れられないのよ。毎

日地震あるもんね。ずっと地震あるんだよ。二日ぐらいない日もあったけど、毎日あるの

よ。だからいつ何あるかわからないしね、うち離れるのが不安な気がしてね。ね、恐ろし

いね。とにかく恐ろしい。まだね、本当にこんなの来たんだかなってね、まだ思うの。だ

から私どっこにも行かないのよ。買い物も行きたくねえし。私朝早く起きてここ草取りす

るのよ。やっとここまで来たけどね、こっちの水かぶった分がね、まだ終えないのよ。だ

けど水仙は丈夫だね。水仙いっぱい咲いたもんね。塩かぶったから弱ってるかなって思っ

たけど咲いたからね。季節になると花咲くから偉いよね。


 

 買い物バスも出るのね。そういうのも時間に出るんだけどね、なかなかね。1回は行っ

てみたのよ。買わなくていいもの買ってみたりしてね。そしたら具合悪くなってね。じい

さんに迎えに来てもらったの。疲れてしまうのね。今になって私も疲れが出たの。そん時

はね、ほら一生懸命みんなさ手伝ってね。支援物資さもらって、みんなに平等に服でも何

でもみんなにあげたりね。本部さ行ってまず必要な物、最低必要な歯ブラシとかそういう

のを貰って来てね、みんなに分けてやったりね。支援物資何必要だって聞いてメモしたり

してね。本当は物資って1ヶ月なんだってね。でも高田はひどいから2ヶ月になって、でも

つい先週、終わったの。だけどもまだまだ大変だってことで、本当に本当に大変な人だけ

7月までになったの。


 それまでにはみんな仮設さ入るからね。だけど仮設さ入っても、また2年でアパートに

移って、またアパートも移るでしょ。でもみんなここさ住みたくないって。前建ってたと

こは行きたくないって。空いてる高台の土地を見に行ったりね、それぞれ考えてるみたい

だ。子供たちの運動場もないのよ。孫の野球の送り迎えのバスが来て、それに乗って練習

してまた帰ってくる。大船渡にいったり、住田にいったり。今日は水沢さ行ったけどね。

なかなか子供たちも落ち着かないのよ。どうしたらいいかね。そこね、そこはうちのとこ

の田んぼだったんだけどさ、じいさんさゲートボール場にしたいんだって。学校の校庭も

仮設住宅建ててっから、遊ぶとこがないからって。


 やっとね、水来たの。2、3日前からやっと水来たのよ。まだ来ないとこもあんだよ。

でもうちは比較的早く来たのね。7月って言ってたけどね、早く来たね。高田はライフラ

イン全部やられたから。無線から何から流れてしまったから、音もねかったのよ。だから

ところどころ消防車止まって連絡するわけよ。4月に大きな地震が夜きたでしょ。あんと

きは夜だから逃げたのよ。あそこまで。夜中の11時。怖かった、津波来るって言って。

なんせ90のばあちゃん連れてかねばならないからな。大変なのよ。着替えもあるしな。

この頃は、みんな枕さ物置いて寝てるの。リュックとかばんふたつさ置いてるのよ。なか

なか片されないのよ。いつまた来るかわからないしね。


 色んな方に色々いただいてね。私たちも2ヶ月は救援物資もらったから。水も何も電気

も来ない時期もあったからね。店もないしガソリンもないし足がないでしょ。最初はパン

とか水とかちょっとしたバナナとかね、そういうのだっけね。だからそっちさ貰ったり分

けたりしてね、今でもそうして生活してんだよ。まず車ある人は行って買って来たりする

んだけどさ。一人暮らしの人は買い物できないでしょ。今日も札幌から納豆貰ったりして

ね。それもお裾分けしてね。だから戦争当時みたいだね。そうやっての生活なのよ。


 よく全国から救援物資来るし、ボランティア来るんだなあと思ったりしてね。私たちが

お返しにボランティアできるかな、なんて思ってね。直接避難所に持って来てくれる人た

ちもあるのよ。その人たちには私お礼状書いてるのね。やっとうちの分も出し終わったの。

 私もね、落ち着いてからあちこちに電話したの。元気でいたからって。そしたらね、明

日は神奈川の友達が来るの。中学校の同級生が神奈川にいるのよ。その人が実家に2、3日

前から来てたから、明日会う約束したんだ。何回もここにも遊びに来てた人なのね。とて

もとてもね、楽しみにしてるの。


 その人もね、最初来るか来ないか迷ってたみたいなの。でもやっぱりふるさとがこうな

ったのは見た方いいんじゃないのって。立派なふるさとでなく、壊れたふるさとも見た方

いいんじゃないのって。神奈川さに居たらどうなってるかわからなくてテレビばりみてさ、

わわって言って来たけども、本当にテレビよりすごいねって。テレビは一部で同じ事繰り

返したりしてっからね。現実を目の当たりに見ればさ、恐ろしさが伝わるもんね、わかる

もんね。こんなに流れてくるんだもんね。


 夢のようだ。本当に本当に夢のようなんだ。ここに流れてきた家、うちの親戚だっけ。

そしたらね、まあ人それぞれなんだって思ったの。たんす預金してたっちゃ。布団の間さ

いれてさ。それも新品のお札にばり替えたばっかりなんだって。それが流れてきたんだっ

て。どこにいったかわかんないんだって。だけどその家が何も残ってないのよ。流れて来

たのがここにあるってこともないのよ。めちゃめちゃにやられてしまってね。もう何ひと

つないのよ。形も何にもないの。このちょこっとした屋根、これだけが残ったのよ。あそ

この赤い屋根のお家は壊すっていったの。あとこっちの3軒は住むって言って片付けてみ

たり、また来たら大変だって言ったりね。


 だから復興までにどのくらいかかるんだかね。10年、私たちいなくなるかもしれない

ね。こうなってしまって、私も大変だ、どうしようって思うでしょ。でも被災した人はも

っとひどいこの気持ち、と思ってね。笑ってばりもいられね、泣いてばりもいられね。だ

から朝早く起きて草取りすんの。4時過ぎっと目覚めてしまうからね。早く寝てしまうか

らだけどね。疲れてしまってね。今疲れが出たんだね。また寝られないのかなって思って

もね、寝るんだけどね。

(2011.5.21.sat)

7月の訪問/

    



 これブルーベリー3人で分けてね。あんたそんな写真撮ってもエリががっかりするから。なんと

おばちゃんめぐせえことって。めぐさいってわかる?かわいくないっつうことよ。綺麗にしてると

こさ来れば良かったのになあ。今風呂あがりでしょ。もう少しめんこくしてんのにね。お化粧もし

て綺麗にしてんだよ。あとね、ドクダミの化粧水も作ったしさ。さっき取って来たキュウリも持っ

てく?キュウリな。これ今朝とったキュウリでさ。あのハウスでね、トウモロコシだのモロヘイヤ

だのっていっぱい作ってるの。自給自足だと思ってね。買い物が遠いからな。田んぼのところも大

分きれいになったべ。うちで田植えしたんだ。あっちにひまわりも植えたんだよ。塩分とれるんだ

って。トウモロコシもいいんだって。草取りしてな。そっち取ってこっち取ってな。


 

 中学校、小学校、ここさ上がってくとこに2カ所、3カ所仮設が建ったんだよ。もうほとんど入る

の。ただね、中のものが入んないんだって。電化製品だとかそういうのが揃わないみたいだよ。で

もね、まず入れるばり(だけ)でも幸せだと思わねばね。家失った人たちは、今は親戚さ行ってる

人が多いんだけど、避難所で生活してた人たちは今まで食べさせてもらってたから、それが今度は

自分でやらねばならない。あれがかかる、これがかかる、店は遠い、知らない人ばりだから話す相

手もいないってのが問題なんだっけ。だから仮設入れば入ったなりに大変なんだって。


 

 私たちは何にも言えることないんだけども、被災してない人はしてない人なりに言葉とかすべて

のものが災いになるからね。だから私はほとんど出ないでうちにばりいるの。誰亡くしたって言う

でしょ。うちは幸いに親戚で誰も亡くなった人いないの。だからそれはよかったね。家を流された

人は親戚でもあるけどね、亡くなった人いないのだけはね、よかったと思ってるの。キュウリもね、

いっぱいなったから、ここら辺の人たちも昼は来てるからさ、夜は仮設さいくけど。だから毎日採

ってね、あげるんだよ。


 

 今日ふっとあんたたちのこと思ったんだっけ。今まで頭にねかったけど、ふっと思ったんだっけ。

そしたらあんたたち来たから。津波さ来たときもね、今日パーマ行こうかな、あ、行かない、なん

だか行きたくないって思ったらこうなったでしょ。そういう能力あるのかもしれないね。わたしの

行ってたパーマ屋流れたからね、危なかったんだね。

 

(2011.7.19.tue)

9月の訪問/

 

建物が流され、凹凸が無くなった町を見ながら、私は平面と立体のことを考えていた。

人がいない場所は平面のように思う。今この町はどこまでも平面に見える。

そして、そこに人が暮らしをはじめたとき、そこは立体に起き上がるんだと思う。何もない所を人が歩いている。

それだけで少し、景色が立ち上がるように思う。

この町が見渡せる橋に立って、景色を見る。建物が流されてはるか遠くまで一望出来る。

大きく被害を受けた町の中心部には、ほとんど人がいなかった。

ただ、遠くがよく見えた。

9月11日、私とこもりはその町の市街地にいた。半年目のその時間はとても静かだった。相変わらずさみしさはそこにあった。

けれど大きさが分裂して、ぷかぷかと大量にその場所に浮かんでいた。それらは人が動くとその人に着いていこうとするのだが、

細いひもで地面に結わいてあるので、ある程度引っ張られるとまた同じ場所に戻った。

おばちゃんの家に行くと、おばちゃんは選挙の世話で忙しそうだった。お孫さんは模試の勉強をしていた。もう少ししたら出か

けてしまうけど、と言いながらおばちゃんは昨日買ったというその町の写真集を見せてくれた。この写真集にはさみしさに覆わ

れる前の、つまり町並みがあった頃の、3月11日より以前に撮影された写真ばかりが載っていた。鮮やかな町並みがある。

この景色を取り戻したいと思うことが、まず大変なの、とおばちゃんは言った。この景色が必要なの。おばちゃんは胸に手を当

てて、肺の奥から息を吐き出しながら、それにことばをのっけるようにして話す。おばちゃんの息は薄く青い。あの青色にすご

く似ている。

もうひとり、この町で大切な人がいる。Nさんという。彼のところにも何度もお話を伺いにいっている。彼も同じ写真集を持って

いて、それを私たちに見せてくれた。きれいな景色だろ、こんな素敵なものを、われわれは持っていたんだなあ。細い目を、さら

に細く、細くして、彼は言った。

 この前パーマかけに行ってたっけ、大船渡のね、美容院。私の行ってるとこ流されたから、

違うとこさ行ってたの。その違うとこもさ、家流された人なんだって。その人がさ、前に行っ

てた所より違う髪型にしてくれるのよね。そんでその人の髪型さ気に入ったからそこに行った

のよ。


 今年ね、何もないけどさ、りんご祭りね。りんごの皮さを長く剥く競争もあるんだ。なんぼ

長くできるか、長さを測るのよ。あとはね、品種当てでしょ、それから釣りね。ここの芯のと

こに針金やって釣りっこすんだ。それからりんごの料理とかね、そんなのもやんの。うちのと

こもな、色んな所から物資、支援もらったから。うちからりんご買ってる人、面識もない人か

らもね、支援をいただいたの。高田は大変だって色んな所からね、貰ったのよ。だから今その

お返しにりんご送りの準備してたったんだ。いろいろやってるからさ、疲れたったんだ。それ

に今年は暑くて大変だった。今日は涼しいけどな。極端だもんな。半袖着てまたこれ羽織って

んだ。


 だけどうちの田んぼ実ったべ。かかしも作ってな。ほらあれ、スチュワーデスだって。スチュ

ワーデスかかしだ。だけどこれ食べんなって言うのよ、検査するまで。食べたり人に譲ったりは

しないでくださいって。自分でも食べちゃだめなの。そういう風な通知入ったのよ。放射能だの

セシウムだのね、検査しないとだめなんだ。全部よ。だから大変なのよ。でもこの辺の田んぼは

ね、水はけもいいから来年はやれるんじゃないかな。うちで実証したでしょ。塩分があっても穫

れるってことを実証したから。ただ、味はね、わかんね。逆においしいかもしれないな。


 市長がね、この本を出したのよ。私泣いた。市長さん奥さん亡くしてしまってもね、頑張って

るもんね。自分ばり(だけ)じゃないから頑張れるって。自分が流されても、みんなそうやって

言うんだっけ。大勢の中で自分ばり家族亡くしたり、流されたりすると大きいでしょ。だけど私

の友達もね、私ひとりじゃないから頑張れる、って。


 却って流されない私たちの居づらい気持ち、なんだかな。避難所行ってもね、何も流されない

くせにって思ったり、色んなことあって心が痛いことうんとあるのよね。だからそう言ってくれ

る人あると、ほっとするのよ。流されない人もあるから、私たち助けられる、ってそういう言葉

が返ってくると私たちも助かるのよ。だっておばちゃん、みんな流れたらどうすんの。流されな

い人あるから助けてくれるからいいんだよって、言ってくれる人があるの。


 

 この間イベントあったの来なかった?復興イベントやったっちゃ。あん時ね、私あんまり外に

出てないからさ、入場券もらって私とお父さんと行ったのよ。お父さんにも、家にばり居ていつ

までも心狭くしてたら駄目だから行ってみっぺって言われてね、行ったの。そしたら私たちが按

じるよりも、みんないきいき元気になって笑い顔があったから、私ほっとしたのよ。私もうじう

じしてばりいられないなって気分になれたんだ。この間お花の生徒に、先生やりましょ、って言

われたけど、ちょっとねって言ったの。


 大正琴やるのも私は賛成しなかったのよ、流された人もいたから、どういう気持ちなのかなっ

て思って口出さなかったのよ。そしたら、その人たちからやるって声が出たから、私もすんなり、

そんじゃやるっぺしって、大正琴やることにしたの。私ばりうちにいてもよくないなって思って、

却って押されたような感じなのね。うちにばりいてうじうじしてるよりも、みんなと集まってな

んかやることも大切なんだね。本当にね、まだ夢のようだな。まさかこんなことがあるんだもん

ね。みんな大変なんだ。どうやって生きていくべと思うな。時が解決するったって、時は解決し

てくれないからな。すべての人に応援もらってさ。

 あ、これね、高田の津波前の写真いっぱいの本が出たのね。この間買って来て、あと妹たちさ

送ろうと思って。高田に住んでた人ならば、高田の昔を思い出すし、悲しいし。だから妹たちの

分も注文したの。毎日、うちの方の新聞にもね、載ってくるのよ。私みんな切り取ってファイル

に貼ったりしてるんだっけ。最初は被災のだったんだけど、最近は思い出の、昔の情景を撮った

写真がね。被災の写真見るよりも、綺麗だった写真を見た方がね、こういう景色あったんだなあ

って、こういうのをまた取り戻したいって思うからね、頑張れるでしょ。これを見てると、改め

てこういう所もあったのかって、こんな立派なお寺もあったのかって。高田市に住んでても見な

いとこいっぱいあるでしょ。知らないとこいっぱいあるから、改めてこんないいとこも流された

んだなって。


 この写真がキャピタルね。あそこの横がテニスコートだったんだ。だけど駐車場になったのよ。

駐車場足りなくてね。今はあそこまで水あるもんね。きれいだったんだよ。泣けてくる、これ見

ると。ずっと砂浜で松原があったんだよ。7万本だっけか。日本百景の1つだからね。高田松原

は。ほら、綺麗でしょ。写真に撮ってっから余計に綺麗なんだけどさ。キャピタルの屋上から松

原見るとね、あーこんな綺麗なとこ高田にあるんだって思うのよ。ここが高田の町なの。第一球

場、第二球場があるのよ。あそこは改装しててもうそろそろ終わりって時に流されたの。高田も

ね、なくして失ったものは大きいの。ここがキャピタルの通り。津波のあと初めてじいさんに連

れてってもらったけどさ、どこどこって説明されても、えーそうだったかなって思うようだもん

ね。あと何もなくなって瓦礫が重なってたもんね。ここはね、桜があってきれいだったんだよ。

ここは高田の町並み。こういう町だったのよ。今は何にもねえ。何にもねえっていったらおかし

いけど。だって線路もないもの。何にもないもの。ここはうちのほうね。米崎。祭りだとうちの

方では大名行列すんのよ。奴さんがね、手槍をぽんと受け取ったりしてね。でもこの駅も流され

てしまった。みんな流されてしまった。ここが中学校。ここもずーっと流されたのよ。本当に本

当に本当に、悲しいんだよ。ここが小友町ってね。ここは埋め立てて干拓にしたのね。ここから

流されて何にもなくなってしまった。とにかく何にもなくなって、ひとつの瓦礫になってしまっ

た。ここも市役所前だからな。市民会館も流されたんだ。ここは竹駒って言って、まさかここま

れるとは思わなかったの。だから犠牲者も多いの。地震のあと、みんな地震強かったねって話し

で流してたんじゃないかな。来ると思わなかったんだと思うんだけどね、あの川沿いにずっと津

波が行ったのよ。駅から何から流されたからね。今日のうちの方の新聞はね、死亡者一覧って言

って一面だったの。大船渡市と高田市のね。まだ見つからない人もね、沢山いるんだっけね。


 電気ついてからテレビ見て驚いた。こうなってたんだって。私は津波も、津波の跡も見なかっ

たからね。私たちはあんたたちより構あとに見たのよ。昨日買い物いくとき、私しばらく高田見

なかったから、それじゃあっち通って行くっぺしって言ってね。なんぼ説明されても、こういう

建物ここにあったっけって思うんだよね。瓦礫片付けてキャピタルだのなくなったら、本当にわ

かんなくなるんでない。市役所だの所々に大きな建物あるから大体の見当はつくわけよ。あそこ

が市役所だからその後ろは農協だったな、こっちが博物館だったなってのはわかるのよ。建物な

くなったら見当つかないんじゃない。今思うと、こんなとこにあんな建物あったんだって思うも

の。失ってから失ったものは大きいんだね。その前にろくに見もしないでね。私も人に言われて、

ここを通った時、あ、これのこと言ってるんだなって思って通るけどさ。改めて言われないと、

気をつけないもんね。見たようで見てないんだ。人の目なんてね。素通りしてしまうから。

(2011.9.11.sun)

半年が経って、散らばった家や商店やアスファルトや木々なども片付けられて来て、それは新しい景色を作り始

めているようにも見えます。でも、おばちゃんにとっていま必要なのは、半年前まであった町なのです。悲しみ

はあまりに大きいと、おばちゃんは言いました。

12月の訪問/

朝の7時、やっと夜が明けた時間に、流された市街地を歩いた。大破した市役所・公民館・交番、町の施設の

入り口には小さな机が置いてある。そこには亡くなった方の写真や手向けられた花やお酒が置いてあって、小

さな祭壇のようになっている。わたしが訪れた時には既に線香に火がついていた。花もお酒も真新しいから、

きっと毎日ここを訪れるひとがいるのだろう。私も、線香を一本あげた。すぐに煙が立ち上って、それははる

か上空にどんどんと吸い込まれていった。

一望出来る市街地全体がまるで、広い広い、墓地みたいだと思った。ここで人が沢山亡くなったからこそ、こ

の町の人々は、この場所を離れることを選ばないような気がする。重機がカタカタと音を立て始めた。壊れた

家屋の土台を剥がして、土をならしている。働いている人たちは、自分の手元を見ているようだった。町を見

ることをしないで、自分の手が動くのを確かめているだけのようだ。

さみしさは相変わらずそこにある。大きさは小さくなって、ひとつひとつの間に大分距離も生まれだした。身

動きが取りやすくなって、私はあちこちを歩きはじめてみた。

会うひと会うひと、とても優しくて親切で、沿岸の町にはめずらしい種類の上品さがある。でも、いつのまに

か飲み込んでからだに入ってしまったさみしさが、丁度胃の上あたり、肺を押し上げるようにして膨れ上がっ

て存在しているのを見てしまった。冗談を言いあって笑う口から、それが見える。色は、濃い青色だった。

Nさんにお話を聞いた時、この町の人びとはまだ、先のことを考えられないでいるのかもなあと言っていた。

しょげ返っている、と。近隣の町では着々と次の町の計画がたっていると聞くけど、この町にはまだそれが

なじんでいないみたいだった。

しょげ返る、しょげ返る。それは亡くなったひとを弔う時間に似ているのではないかと思う。

何もなくなった市街地に、鮮やかな花が手向けてある。

ここは大きな墓地にも見えるし、大きな家にも見える。

だからきっと、またここに暮らそうとするのではないかと思う。

悲しみと一緒に、亡くなった人びとに寄り添うように、

この場所に暮らす人びとは、弔いと共に生きている。

 

手を合わせること







1月の訪問/

 今年りんご少なかったのよ。台風で風強かったでしょ。これ家のカボチャも煮たんだ、食べるか?何で

も作るんだ。だって自給自足しなば、生きていかれねがすと。何でも自分でやんねばさ、ね。サツマイモ

だって孫と植えたんだ。だってそうしなくってはさ、生きていけないもの。だって店遠いもの。サツマイ

モだってさ、こんなの一本だって食べたいときに食べらんないもの。それを保存してね、置いておくのさ。


 そこのね、うちの前に住んでた人は仮設さ入ったの。家流した人は大抵仮設ね。でもそこの3軒は直し

て入るって言ってたんがすと、でも若い人はまた津波来っと怖いから戻りたくないって。でもじいさんば

あさんは戻りたいって。それで半分直したりしてたんだけどね、まだ揉めてるんだって。海が近くに見え

るから嫌なんだって。とってもすぐに海なんだっけ。海の前の所にお祭りやってた広場があったんだけど、

それもね、地盤が下がったりなんだりして、海になっちゃったんだってばね。


 それこそ数えられないくらいの財産だっけね。いっこいっこの家のを足したら大変なんじゃないの。そ

れこそね、ダイアモンドもあったんじゃないかってね、私思うのね。私の友達ね、高田松原の方さ住んで

た人がいたんだけど、去年、一昨年かな、勲章もらったんだよ。でもね、それも流れてしまったし、その

人も流されてしまったんだ。他の友達も何百万円もする着物の帯も流されてしまったんだってね。本当に

本当に大変な財産だっただろうね。


 あそこ市役所のところも、今なんにもないでしょ。一面家が建ってたのよ。信じられないでしょ。さっ

きね、じいさんと一緒に大船渡の方さ行ってきて、よくもよくもこんなに大きなの来たんだねって言って

たんがすと。思いっきり来たもんね。2、3mのが来ると思ってたらね、もう10何mでしょ、思いっきり来

たんだもんね。


 うちのお母さんさは地震の後すぐに逃げてきたんだよ。高田病院の前を通ってきたんだって。でも地震

があってすぐに逃げてきたから、道が混んでいなかったんだって。だってお母さんさ、ちゃんと白衣も着

替えて帰ってきたんだもんね。歯医者の先生の采配がしっかりしてたんだろうね。結局働いてたとこは流

されたんだけど、また8月からね、お仕事はじまったのよ。プレハブの歯医者さんだけれどね。あとね、

うちの甥っ子は海の目の前のキャピタルでシェフをしてたんだ。海の前だからって、すぐにみんなしてキ

ャピタルのバスで逃げたんだって。何も持つって訳でもないもんね。時間的にもまだよかったんだべ、あ

そこは4時だかチェックインだから、まだ泊まり客もいなかったから。でも、お客さんがいる所は大変だ

ったんだってね。だからスーパーとかが大変だったんだってね。会計あるでしょ、そのままぱっと逃げれ

ばよかったのにね。だからね、いかにどう采配するか、なんだっけね。


 私の友達がね、市役所で避難する人を誘導してたんだって。そしたら目の前でお年寄りが転んだんだっ

て。それを助けて支えて3階まで上がってた所で津波が来たんだって。それで助かったんだって。だから

ね、助けっぺって言って亡くなった人もいるし、逆に助けられた人もいるんだってね。そこらへんの違い

が出てくんだってね。もう運だよな。津波てんでんこっていうけど、ほんとにてんでんこなんだっけな。

津波さ来たときには高台に逃げるって、マップさも作ってたんだっけね。でも結局津波が来たら、てんで

んこなんだっけね。人を助けに行って流された人、物持ちさ行って流された人、そういう人がいるんだね。


 あとはね、避難所の選定がいけなかったんだね。まさかここまでってところで流されたんだね。市役所

だって、体育館だって、どれも避難場所だったんだもんね。この頃私思うんだっけね、流された人はひと

思いに流されたのかなあって。それならまだ良いけんども、体育館もぐるぐるって渦になったんだっけね。

そして引き潮でサアって行ったんだっけね。だから散り散りになってしまったんだ。まだ見つからない人

も多いもんね。

 
  

 悲しい、そう言うことがいっぱいあるんだっけね。私なんてこうやって生き残ってこうしててね、おば

ちゃんがいるから助かるんだって言ってもらってもね、さて何も出来ないでしょ。聞くとかなんとかその

くらいしか出来ないんだものね。あげられるものは渡したりもしたけど、それにも限界があるでしょ。難

しいの。流された人も流されない人もそれぞれに難しい。難しいんだよ。ここでこうして寝てても、ああ

仮設の人どんな思いでいるのがなあって、思うの。家が無いんだもんね、これからお金払うんだもんね。


 あそこのね、りんご園だった所ね、あそこはテニスコートになったんだ。りんご園は流されたんだけど、

そこさの孫がテニス部なんだって。でも練習する所みんな流されたからって、そこのおじいさんが作って

あげたんだって。うちの横の田んぼもね、ゲートボール場にしたいってじいさん言ってたんだけっども、

辞めたんだ。あんた、みんなこうしてあくせくしてるのに、そこであんたがゲートボールしてたら笑い者

になるよって。


 私は出身は一関市なの。だから親戚は誰も流されなかったんだ。ここら辺はみんな、ここら辺で結婚し

て行ったり来たりしてるから、生き残っても親戚が流された人、多いんだ。うちのじいさんも兄弟ふたり、

ここいら辺にいたでしょ。ひとりは無事だったけど、ひとりは流された。だから本当に心を痛めてんだ。

じいさんのすぐの妹、ね。


 海の方では養殖始まったんだ。ワカメ、カキとか、かな。今年はカキもひとつも食べないの。ひとつも

来ないしね。うちの妹がやってたんだけどね、もう辞めてしまった。年も年だしね、舟流されたもの。舟

は安いもんじゃないもんね。毎年今の時期になると冷蔵庫さカキだのウニだのアワビだのでいっぱいにな

ってたんだけどね、今年はひとつもないの。アワビのアの字もないの。今何もねえから何も食べられない。

却って東京の方からもらってよこすから。


 一本松ね、この木枯れたんだっけね。ね。ずっと花火やらライトアップやらなんやらしてたけど、私は

ね、行かないの。家にばりいるんだ。用事ない限りな。買いたいものもないがすと。もう欲しいものもな

いんだね。うちの姪が江東区の方にいるんだけど、茶道さやってるからさ、この間帯やら着物やら送って

あげたんだ。おかあさんも孫も着ないっていうからね。それでお礼に何か送ろうかって言われたんだけど、

バックも服も靴もなんにもいらねんだって言ったんだっけね。そしたらばあちゃん、随分と欲がなくなっ

たもんだって言われたんだ。


 考えることあるんだっけね。私はあんな風にしてボランティアに行けないなあって。だって神戸の時は

人ごとみたいに思ってたったもの。神戸の人たち今たくさん支援に来てるんだよ。名古屋の人も沖縄の人

も、全国から支援に来てるんだよ。お父さんと話すんだよね。申し訳ないことしたなあ、神戸の人、何千

人も死んでなあ。神戸の人たちが大変だった時、私たちはいくらも手を差し伸べないで。恥ずかしかった

ってなあ、言ってたのよ。人ごとだと思って暮らしたもんなあ。今こうしてやっとな、身につまされてや

っとわかるんだね。今になれば申し訳ねんだなあ。

(2012.1.20.fri)

夕方から夜になった頃、 ひとりで外に出た。

外は街灯の1つもなく真っ暗闇で、近くを走る車の音も人の話し声も無く、本当に静かだった。

曇っていて風も無く、そこにはただ空気の塊があるだけのようだった。

自分が息を止めたら、そこに自分がいるのかさえ分からなくなりそうだった。

おこがましいかもしれないけど、私は、おばちゃんの言っていた、さみしい、のなかにあるものが少しだけ分かるような気がした。

しばらくしたら雪が降ってきて、それが土に着地する音がし始めた。

音が聞こえるとその空気の塊が柔らかく離散して、その隙間にやっと自分がいることが出来るような気がした。

市街地でお線香を上げてから、おばちゃんの家に行った。いつもはなんの約束もせずに伺ったりしてしまうのだけど、その日は2週間も前から

約束をして行った。おばちゃんはお孫さんのこととか旅行のこととか、そういう井戸端で話されてるみたいなことを、笑ったり泣いたりしなが

ら話してくれた。おばちゃんは相変わらず家から出ることを避けているようだった。

おばちゃんの家からの帰り、その周辺を歩く。

真新しい電柱が等間隔に並び、流されてきたものは大分片付けられて、曖昧になっていた土地の境界は四角く区分けがされている。塩が残っ

た白茶けた景色ではなく、掘り返された土が黒々と、本来の鮮やかさを主張しているようだった。

津波の前にここに何があったのか、わたしにはとうとう何にも分からなくなってしまった。

空気をよく見ると、青いつぶが無数に浮遊している。大きく息を吸ってもそれは微動だにせず、わたしの身体に入ってくることはなかった。

ふと振り返ると、少し高台におばちゃんの家が見える。

ほとんどが流された景色の中に、手入れされて青々と茂ったお庭と立派なお家がポコンと建っている。

わたしは、それがその場所に長い間建っていたものなのか、それともどこかから完成されたものを持ってきて付け足すように置いたのか、よく

わからないと思った。

おばちゃんの家を、例の、大きなうす青いさみしさが覆っていた。さみしさの四辺からはひもが垂れていて、それはしっかりと地面に固定して

あるみたいだった。

3月の訪問/



1年目の日、私はその町の、流された市街地にいた。

ふと見ると海辺に重ねられた瓦礫の山の上に、たくさんのひとがいる。近づくと、山は随分と大きい。高さは10mは

あるだろう。

人が登って出来た獣道のような、重機の通り道のような、裾から頂上までつながる道が出来ている。

でこぼことして覚束ない道を、大人も子どももお年寄りも赤ちゃんもヤンキーも女子高生も、みんな連なって、ぞろ

ぞろと登っていく。

しばらく見ていると、ちょうど一人分、その列が途切れている箇所を見つけたので、私は小走りでその隙間に入った。

みんなゆっくりと登っているので、私も自然とゆっくりとなる。足下を見ると、いろんなものがあった。ぬいぐるみ

も洋服も洗剤も自転車も宝石も木材も鉄骨も本も写真も、なんでもあった。そういうひとつひとつのものが積み重な

って、この瓦礫山が出来ている。目に見えているものだけではなくって、もっといろいろな、とにかくなんでもを、

私は踏みしめて歩いている。

山の上からは、流された広い広い市街地が見えた。

周りのひと達はひそひそと話しあっている。

ここにあったものは何だったかと、思い出そうとしているようだった。

列の終点はこの瓦礫山の頂上ではなくって、その先、海の方に続いていた。

登ってきたのと反対側に降りる。瓦礫山の間を縫うようにしばらく歩くと、ごろごろとした石を積んだだけの簡易の

防波堤に着いた。

防波堤は海に対して平行に、長く伸びている。人びとはその上に横位置列に並んで、海を向いていた。

私も隙間を見つけて列に入り、向き直って海を見た。誰もおしゃべりをしない。静かだった。

しばらくすると、防災無線が鳴る。

少し遅れて沖合の舟が、汽笛を鳴らす。

閉じていた目を開いて海を見たとき、この青色をこの町で何度も見たことがあると思った。海は、巨大な体積と質量

を持った、青い青い、塊だった。

海はずっと、この場所にあり続けるのだろう。ここから無くならないのだろう。

防波堤を降りて、市街地の方に戻る。

喪服を着たおばちゃんが、お友達と話しながら歩いてくるのにすれ違った。

髪もきちんと染めてお化粧もして、きれいにしていた。おばちゃんが楽しそうに笑っていたので、とてもほっとした。

私は流された市街地にこんなにひとが行き来しているのを、はじめて見ていることに気がついた。すると私は、この

町がうつくしい町だということがよくわかる、と思った。

花束を抱えたひと達がたくさんいる。

広い広い平らな市街地から、人びとは迷うこともなくそれぞれの一点を選び、花を手向けていく。親しいひとが亡く

なった場所なのだろう。

私はそのなかのひとつの花束に近づいた。見ると、花束から上空へと細い糸が繋がっていて、その先にはあのうす青

いさみしさがぷかぷかと浮かんでいた。

どのくらい高いのかよくわからなかったから、大きさがわからなかった。とてつもなく大きいのかもしれないし、小

さいのかもしれない。

私はただ、そのひとつひとつを、じっと見ることしか出来なかった。