2011.9.20(2011.10.20 komoriharuka)

今日は大雨
ドイツから来ていたドイツ人のT(瀬尾の友人の友人)が私たちと同行することに

写真洗浄のボランティアをしたいとのことだった

閖上小学校の写真洗浄へ連れていくことに

英語は全然忘れてしまって
片言で、ここは元々町があったんだよとか
5mの津波が来たとかを
説明しながら走っていた

この場所を知らない人と来ると一生懸命説明しようとしてしまう
今の景色からは分からないことがたくさんある
自分も実際に元々の風景は知らないけどでもここに何かがあったことは知っていて
そのことを伝えなければそのまま通りすぎてしまうだろうなと思う

ドイツでは原発のニュースばかりで津波のことはあまり知らないという
津波の映像も見てないと言っていた
あれだけのことがあったのに
私たちは毎日毎日テレビで見ていたのに
遠く離れた違う国では見たことないなんて
YOUTUBEにもあれだけたくさん上がっているのに
ちょっとでもそのことに触れようとしたらいくらでも情報はあるけど
まずそこまでいくほどのきっかけは、違う国の報道の中にはあまりないのかもしれない

確かに私が普段そうだし、そもそもニュースすら見ていないから
どこで何があったかすら知らないから
なんとも言えない

行ったこともない国のことをニュースだけから想像したり考えたりするは難しいなと思う
なにかしらのきっかけがないとアクセスできないよなーと

閖上小につくと、その日はスタッフさんがいなかった
どこまで伝わっているかわからないが洗浄前の写真や展示されてる写真を見せながら説明する
ここではボランティアできないので山元町へ
友達のAくんに連絡してお邪魔させてもらう

山元町写真洗浄のスタッフさんは私たちよりも英語できるので完全にバトンタッチした
Tもふんふんって聞いていたから、色々と伝わったようで安心した

私たちはその間に南相馬へ行くことに

はじめての南相馬市である
南相馬市にはボランティアセンターが二カ所有り(現在は本部、支部となっている)
原町地区、鹿嶋地区がある
その原町の方へお邪魔する
南相馬市は平成の大合併で合併した市で、小高、原町、鹿嶋は元々違う市町村だった
福島第一原発から小高が20km圏内、原町が30km圏内、鹿嶋が30km圏外といった形で別れていた
(完全にきれいにわかれているわけではないけれど)
それぞれ、危険区域の体制が違うため、ボランティアセンターも独自に動いており
その地区に合わせて運営されていたようだ
原町の社会福祉協議会に行くと若い女性の職員さんがたくさんいらっしゃった
ここは30km圏内だけれど、若い方がここで働いていることにとても驚いてしまった
職場がここにあるからそれは当然なのだけれど

取材をお願いすると、私たちの取材意図をすぐに理解してくださった
だけど、ここは原発の関係で事情が複雑だから、
ちゃんとした情報を記録に残したいとのお話だった
色んなメディアが入ってきて、好き勝手に報道していたことが想像できた
その方は静岡の出身で嫁いで南相馬市に住んでいるという
小さなお子さんもいて、家はすぐそこなのだけれど
今は宮城に家を借りているそうだ
その方にもお話を聞きたいなと思い、改めて取材することになった
地図を見て知ったのだが、ここがもうすでに原発から25kmくらいの場所だった
そんなこと全く知らなかったし、ここにいたら
生活の基準で動いているわけだから、どこが何kmとか何msvとか言われても
あ、そうだったんだと思うしかないというか
ここにいたらそういった数字的なものは、もはや意味をなさなくて
この場所にいたら、この場所にいることが当たり前だし
日常であるし、何も変わらない
その生活する場所を変えたりしなければどうしようもないものだと思った
でもそこから離れることもできないし
離れることなど考えられないくらい
崩れないままの生活が目の前に見えているから
住んでしまったら、もう放射能は本当に見えなくなってしまうと思った
誰も意識していないわけではないけれど
職場があって、家族がいて、家があったら、優先されるものは今までの生活の方だと思う

南相馬市を離れ、山元町へ
途中で山元町のボランティアセンターに寄る
前にお会いした職員さんに用事があり何度か訪ねたのだが
この日にやっと会えた
その方は前に私を車に乗せて1時間ぐらいかけて山元町を案内してくれた
瀬尾とははじめての対面であったがすぐに仲良くなった
お盆の時にまだ休めてないと言っていたが9月になった今でも休んでないという
おにぎりとアメをもらった
おにぎりはボランティアさん用に今でもずっと作り続けているそうだ

A君のお誘いで山元町に住むHさんのお宅へ伺う
Tもいて、A君の大学の友達のOさんもいた
夕ご飯をごちそうになることに
田舎のお家はいろいろとしきたりがあるので
なんだかその先入観からか、というか実家がそういう感じだからなのかもしれないけど
最初はとっても緊張してしまった
でもみなさんとてもすてきな方で、たくさんごはんをごちそうになった
おじさんは消防団をやっていたそうだ
本当は3月で退職だったけれど、震災後も勤務されていたという
今度ゆっくりまたお話が聞けたらなと思う
私たちがあまりにろくな食事をしていないことを話すと
おすしやクッキーやワインなどをたくさんもらってしまった

山元町を離れ、仙台駅へ
私は仕事があって今日の夜行バスで東京に帰る
できるだけそれはしたくなかったのだけれど

瀬尾とTとお別れをして
バスにのる
バスは空いていて毛布と空気枕があったので頂戴することにした

 

 

 9.20(10.20)