2011.9.18(2011.10.18 komoriharuka)

 

石巻から女川町へ
女川は今まで一度も来たことがなかった
ボランティアセンターへは何度か道に迷ってしまった
その道を通りながら、コンクリートの建物が
崩れないまま横転している様子をみた
引き波によって倒れたらしい
ニュースで聞いていたけど、実際にみると
他の建物はほとんど残されていないから、
元々そういう形だったかのように見えてくる
どっちが屋上だったのかもよく見ないとわからない
この横転した建物はモニュメントとして残す計画が出ていたりした

なぜかこの日は車通りが多かった

総合運動場に仮設の社会福祉協議会があって
突然訪ねたのだがすぐに取材に応じて下さった

お話してくれた職員さんは女川町出身の方で
ボランティアセンターの運営だけでなく
当日の話やこれからの話をたくさん話して下さった

3月11日、地震が起こってその職員さんは
病院に社会福祉協議会で日頃お世話をしているお年寄りの方をつれて避難したようだ
だがその時はまだ津波だとわかっていなくて
誰かが津波だーと叫ぶ声が聞こえると
窓の外に巨大な黒い波が迫っていたという
あっという間に病院の中にも水が入ってきて
みんなバラバラに流されてしまったという
その方はトイレに流されなんとか助かったが
目の前で亡くなられた方もたくさんいたようだ
津波が引いて、廊下に横たわる方の間をまたぎながら
まだ息のある方を探したという
食料がなく、病院の売店のお菓子をみんなでわけながら食べてしのいだそうだ
水もいつなくなるかわからないので
お年寄りの方が飲み過ぎてしまわないように注意しなければならなかったという

家を見に行くと跡形もなく流されていた
それでもまだ小さな息子さん2人と避難所で再会できて
ほっとしたという
それからは社会福祉協議会でのボランティアセンターの仕事に追われ
避難所から通いながら勤務していたそうだ

今までこんなにも詳細に津波の当日のことを
体験として聞いたことがなかったので
想像するので頭が精一杯だった

今は仮設住宅で家族そろって暮らせているのが一番嬉しい
私は女川町が大好きだからまたこの町に家をたてたいし、
息子たちにもずっと住み続けてほしいと仰っていた

取材の時にはあまり話題にはでなかったのだが
女川町には原発がある
今回、幸い大きな事故にはならなかったが
いつ何が起こってもおかしくはない
それでもここに住まれている方はたくさんの方が原発関係の仕事をされているし
原発があることで財源もあり、石巻市の合併にも参加しなかった
町の中にはよくみると原発関係の立て看板がいくつかあったりした
すごく自然な形でこの町には原発があって
それがなくなってしまったら生活に困る方がたくさん出てしまうし
反対が起きないのも、すごく自然なことなのかもしれないと思う
今回の震災からの復興計画などもそのおかげで早く進んでいる面もあるという
原発のこの仕組みが本当に嫌だ
お金のない町につくってそこからなくてはならないものになってしまう
でも何があってもその町に住むのは、そこにずっと生まれ育って住み続けている方で
そんな大好きな自分の町から離れることなど簡単にできる人たちではない
人が住む限りつくってはいけないものだと思うのだけど
この震災から逃れた女川町の原発はしばらくなくなることはないのだろうなと思う

それから、仮設の飲食店で定食をたべる
その場所にはいくつかの商店が仮設で店を出していた
お花やさんや電気屋さんもある
お昼時だったので繁盛していて忙しそうだった

町の海側を見ようと車を走らせる
半島側へ山道を登っていくと崖崩れによって道がすごく狭くなっていた
その脇にはところどころ下の方へ降りていく道があって
小さな看板で集落の名前が記載されていた
わたしは少しそちらの方を見たいと思って
竹浦というところへ降りていった

降りていくと家がそのままひっくり返っていた
何も片付いていなかった
重機が入った様子もなく、おそらく震災当日からほぼ何も変わりのないままの
集落がそこに残されていた
そしてそこには人が住んでいるようだった
あれほどまで何も手をつけていない状態をはじめてみた
突然の景色にあまり頭が働かなくて今でもぼやぼやとしか覚えていないのだが
よそ者が入って行ける感じが全くしなかったのですぐに引き返した

それから中心地へ
元々観光施設だった場所にたくさんの車が駐車してあって
そのほとんどが県外のナンバーだった
たくさんの人が見物にきて写真をとっていた
なぜこの場所なのだろうかというのははっきりわからなかったけど
地盤沈下していて、海とは離れた場所にも海水がまだ残っていて
たくさんお魚が泳いでいた

石巻市へ向かう
4月にお会いしたおじちゃんの家へ
9月5日にも一度訪れたのだが会えなかったので再び
おじちゃんが住まれているお家の前へいくと
窓から見ていて気付いてくれた
おじちゃんはいつにも増してラフな格好をしていた

お客さんあんまりこないからといいながらも
お茶やコーヒーやどら焼きを出してくれた

車が壊れてしまったこととか(なぜかマフラーがとれていた)
テレビが友達だとか
色んな話をした
それから昔の石巻の話も
おじちゃんが元々大工さんだったこともはじめて知った
たくさんのお家を建ててきたという
4月にわたしたちが困ってるおじちゃんを手伝おうとしたとき
女の子にやらせるわけにはいかないという
おじちゃんの意地を思い出した
流されてしまった大工道具を洗ってきれいに干していたのも思い出した

それから1000年に一度のおじちゃんの津波ギャグが出た
言葉で説明するのは難しいのだけど
それを瀬尾も真似して2人でやってて、それがおかしくてずっと笑っていた

何度も住所と名前を書いたのに、また書いた
たぶんまた来ても書くのだろうなと思いつつ大きな字で書いた
4月にもおじちゃんが片付けていたお家のカレンダーに書いた

おじちゃんとのことは、ずっと大事にしたいなと思っているので
映像でちゃんと残したいと思う

そのおじちゃんの家はもう解体が始まってしまったと言う
すぐ一週間ちょっと前、壊される前の姿を見に行けてよかったと本当に思った

おじちゃんの家に行く
もう建物はなく重機が二台あった
おじちゃんが育てていたお花も土に混ざっていた
色んなものが一緒になって塊になっていた
あの屋根も、柱も、床もぜんぶ同じ色合いの塊になっていた
霧のような水が配水管からかすかに吹き出していた
目に見える家という構造がなくなってしまっても
それでもこの場所はおじちゃんのいた場所だっていうのは変わりないと思った
おじちゃんが大事にしていたのはこの場所で
そこに流れていた時間はどんな形になってしまっても
この場所にあるんじゃないかと思う
形がなくなっても思い出される記憶は圧倒的にこの土地にあると
私は思ってしまった
ここで生活していたおじちゃんを私は知らないけれど
でもそう思った

石巻のボランティアセンターへ再び取材に
その日はNPOの団体をまとめているセンターへ行った
NPOをまとめるためのボランティアセンターは石巻にしかないという
たくさんのNPOが集まった石巻だからこそ必然だったのだと思う
このセンターの運営も徐々に地元の方を雇用して
石巻市で運営できるよう進めているとのことだった
どのNPOも考え方ややり方は違っても向かう方向は同じだから
ちゃんと理解しあいながら進んでいると仰っていた
団体だからできる活動もあるし、個人だからできるものもある
団体同士の衝突のうわさを耳にしていたのだが
そういうのは部分的な話で、実際に大きな目で見たら
ここまで大きな市の支援をしていくのには必要なことであったと思うし
それぞれがそれぞれのやり方で進めていくのもできる場所だったのではないかと思う

今日は仙台へもどります
明日はちょっと休む予定

 

 9.18(10.18)