2011.9.24(2011.10.24 komoriharuka)

 

朝起床
3人はもういなくなっていた
すごいなー、うちだったら絶対寝坊だな
テーブルに置き手紙があって
みんなが走り書きで書いたっぽいメッセージが
すごく嬉しかった

私たちは南相馬市の原町地区で取材があったのに
もうすでに遅刻である
急いで向かう

原町地区のボランティアセンターの局長さんが対応してくださった
大丈夫ですよー
これがあった方がいいでしょ?と言って
南相馬市の青いビブスをわざわざ着てくださった
南相馬市社会福祉協議会では3月12日に行われための防災のイベント中に地震があったようだ

そのため地震直後の非常食や毛布は用意してあったそうだ

ボランティアセンターはすぐに立ち上げたが原発の事故があり
みなさん避難しなければならなくなったそうだ

原発事故を知ったのもこんなに近いがテレビだったという

外に出ていて帰ってきたらみんなに服を脱げと言われたそうだ
それからどう対処していいかも分からないまま
自己防衛したとおっしゃっていた

それからしばらくしてからセンターをはじめることができたそうだ

南相馬のボランティアさんはほとんどが県外から来ていたという
原町では相馬市や南相馬の鹿島区までなら物資が届いても
原町まで届かなかったりしたそうだ
そして大手の企業やチェーン店は早々に撤退してしまった
(今でも再開できていないチェーン店はある)

そんな中で駆けつけてくれたボランティアさんがとても嬉しかったとおっしゃっていた

この町に残る人と出ていく人がいるけどそれぞれの考え方はみんな理解しているし、その相違でもめることはなかったよ
怒りのような感情をもつ人もいるし、あきらめのような気持ちの人もいる
それはみんな違う人なんだから当たり前のことだよ
とおっしゃっていた

私は東京で考えていたとき、なんでみんなまだここに住むのかが正直わからなかった

自分の父母や祖母なら確かに離れないかも、と思うことはできたけど
でもやっぱり私個人としては納得がいかないと思っていた
それは原発のことだけじゃなく、津波の被害にあった地域もだけれど

東京にいたら分からないことはたくさんあって、それはこちらに来たらすべて納得できる理由があるし
色んな矛盾も生じているけどそれも何故起こっているのかが自然にわかるから
そのことをおかしいとも思わない

違う場所で想像してたらそれは無理があるなと思う
知らないことの方が多すぎるから

同じことを結構何度も書いているけど、、

南相馬市には20km圏内に小高地区がある
小高ももう少しで避難解除される

なので解除されたときにボランティアさんがいないということにならないよう
原町のボランティアセンターの瓦礫撤去作業を続けているとのことだった

この数ヵ月間手をつけないあの日のままの状態の瓦礫撤去を始めるのはものすごく大変なことだと容易に想像がつく
ボランティアに参加したときも2ヶ月手をつけていないお家を手伝ったけれど
壁も床も畳も持てばボロボロ崩れてしまうほどだった

人を集めるのも大変なことだ
しかも20km圏内の場所に
もうわすれかけている被災地のことを
ボランティアセンターを続けることでわすれないように発信しているのだ

30km圏内でボランティア活動をすることも最初はクレームがたくさんあったようだ
私も友人から聞いて驚いた
だけど、センターの方は、ここに来てくれたボランティアさんはそのことまで分かった上で来ているし、実際にニーズもあるし、やるのが普通だとおっしゃっていて
私がここに文章で書くとまた語弊が生まれてしまうかもしれないが
それはごく自然なことだと思えた
そこに住む人たちはもういるし、ボランティアセンターがあってボランティアさんが集まって、困っている人を助けないわけがないと思う

南相馬の取材を終えて
道の駅へ

道の駅では福島の野菜や果物や他の県の食品まで数多くそろっていた
普通は道の駅っていうとその土地でとれた特産を販売しているけれど
この市自体がすごく田舎でこれといった特産がないような気がした
福島の食品には測定済みの表示がされていた
それでもやっぱり信用できるものじゃないなと思ってしまう
そのシールでは安全か安全じゃないかの不安はあまり回避されない気がした
みんなが忘れてしまわない限り消費者が戻ってこないのではないだろうか

いちごのストラップを二つかって、私はももジュースをかって出発
瀬尾は福島の手作りアクセサリーを買っていた

それから新地町へ
新地町のボランティアセンターに取材にいく
局長さんがいらっしゃり、対応してくださった
新地町は福島県で宮城県との境にある

新地町では長期で運営に携わっていた方に大学の先輩がいて
前々からいきたいなと思っていた

新地町ではもう瓦礫撤去作業はなく、仮説支援の活動をしていた

同じ福島県でも、どちらかというと山元町や亘理町と似ている印象をもった
自分たちの生活に関わる問題としてあることはあるが
その問題をどこまで抱えているのか、という視点が
南相馬市とは大きく違っていた
外から見たら、新地町も福島県であって、原発からも近く
一緒くたに受け取られる問題も
この場所までくると細部でも、もっと全体としての捉え方も
かなり大きく違うのだと思う

取材を終え、総合運動場の仮設住宅に行ってみる
その後は沿岸へ
残された家がぽつぽつとある
辺りは緑色だけれど家があったことがわかる
黄色い家がたっていた
散歩している方がいる
とても静かな時間が流れていた
それは家がなくなってしまったからというよりは
ここに元々あった、田舎独特の時間のように思えた
さらに移動すると道路標識や電柱だけが残された場所についた
まるで映画のセットみたいと瀬尾が言っていた
もはや作られた景色みたいで、夕方の空の色も紫にきれいで
地盤沈下でたまった水もきれいな色に染まっていた
戦争のあとの景色みたいだった
戦争を知らないけれど、想像の、あるいは今まで見たことのある作られた戦争のイメージと
とても似ていた
倒された防波堤にのぼる
海がとても近くに見えた

仙台に帰る
すると同じく東北で活動しているSさんにお会いすることに
もう1人Hさんと一緒に活動していて、
語りの映画をつくっている
うわさだけはずっと聞いていて
はじめてお会いすることができた
今まで出会った東北の方の話を聞いたりして
行動の仕方もとても興味深いし、撮っている映像も気になるなと思った
どこへでもすぐに行ってしまう感じが私たちの動き方にも近い気がした
東北の震災の記録という以上にそこに住まれている方への興味も
なんだか似ている気がした
もっと色々と話したかったけれど、
今日はこれから岩手に移動するので
Hさんも一緒にまたゆっくり会えたら嬉しいなと思う

岩手へむかって出発
コインランドリーによる
うさちゃんランドという名前のコインランドリー
ソフターをかってそれも一緒に乾燥機にいれる
ソフターの絵柄もうさちゃん的なやつで
なんか面白かった

私が途中でとんでもなく眠くなってしまい
瀬尾が運転を変わる
たぬきが出たらしい、40分おきに1たぬき
起きると北上市のコンビニにいた
瀬尾がたぬきひいた、たぬきひいたと話していた
外にでたので寝起きのまま私も外にでる
ふらふらついていくと星の見える場所にいた
寝ぼけていたせいか、瀬尾がとんでっちゃうのか、と思っていた
コンビニにはすごい強面の人がいて、レジ前で缶ビールをあけてのんでいた
私の田舎でも見たことのある光景である

それからまた車中泊
その日はとても寒かった
ちびまるこちゃんのおもちゃが売っていて、永沢くんを買った

 

 9.24(10.24)