2011.9.20(2011.10.20 seonatsumi)

朝イチで仙台駅へ。
大学院の友人の彼氏の友人であるドイツ人のTさんが写真洗浄をやってみたいと言うことで、迎えにいく。
彼は日本語が話せないため、電話をしても何を言っているのかほとんど分からず。
小森に携帯を渡して話してもらう。
なんとか合流。
背の高い男性。

車に乗って閖上小学校の写真洗浄スタジオに向かう。
ここは草むらに見えるけど、津波が来て建物が無くなった場所なんです。
つたない英語で伝えると、Tさんはすごく驚いていた。
ドイツでは原発の報道はあるけれど津波の報道はあまりない、
町が無くなるような被害があったとは知らなかったという。
世界がインターネットで繋がっていて情報はなんでもあるけれど、そこにアクセスするまでの、そのきっかけの知識がなかったら、それは自分の元にはやってこない。
それはいいこととも、悪いこととも言えると思う。
自分の生活に関係する知識って、本当はどれだけのものなんだろう。
なんでも関係があると言えばあるかもしれないけど、知らなくても十分に暮らせると思う。
たとえば小さな村のおじいちゃんが海外に作物を送っていたとする。
それでもそのおじいちゃんにとって必要な知識は、その国の窓口になってくれるそのひとの電話番号だけかもしれない。
知らないことは損得に直結するかもしれないけれど、そのひとの暮らしの幸福には直結はしないのかもしれない。

それでも私達はTさんに、持っているつたない英語で津波のことを伝えた。
写真集とか地図とかを見せながら、
ここまでこの高さで津波が来たとか町の機能が無くなった場所もあるとかどのくらいの人が被害にあったとか、知っていることを全て伝えたかった。
自分の故郷が被災をして、それを必死に語ってくれる人にたくさんあってきたけど、こういう心境なのかなと思った。
こんなに大変なことが起きたんだと、それを覚えていてほしいと思った。

閖上小学校に着いたけれど、スタッフさんが不在だったため引き返して、山元町の写真洗浄スタジオに向かうことにした。
山元町に着くと、一時間後なら案内出来ると言ってくれたので、車の中で待つ。
今朝ゆでたじゃがいもを食べる。
Tさんは箸で器用にそばを食べていた。

時間になると、先日山元町を案内してくれたAさんが来てくれた。
Aさんは丁寧な英語で写真洗浄のプロジェクトの説明をしてくれた。
英語の分かる人がいてとてもほっとした。
Aさんが、取材の約束があるなら、Tさんは僕が案内するから出発していいよ、と言ってくれた。
お礼を言って、南相馬市に移動することに。

南相馬市には原町地区と鹿島地区の二カ所のボランティアセンターがある。
原町は原発から30キロ圏内、鹿島は県外になる。
私達は何も知らずに原町のボランティアセンターに向かった。
ボランティアセンターは社会福祉協議会の事務所のなかにあり、私達が着いた時間はちょうど活動が終わってボランティアさんが帰ってきた頃だった。
ボランティアさんは10数人いて、年齢様々・容姿様々で、男性中心のようだった。
手作りの掲示物を見ると県外の方が多い。

スタッフさんにこれからお話を伺えないかと交渉する。
私達の話をふむふむと聞いて事務所に入っていった。
数分後、担当の方が出てきた。
企画書をもって、もう一度来てもらえますか?と言われた。
その時は私も小森も、少しがっかりしたと思う。
今まで現場に行けばそのまま話を聞かせてもらえていたので(それに甘んじていたのもよくないけれど)、今回もそのようになるかなと期待していたのだ。

スタッフさんは続けた。
私達は、誤解のないように、正しいことをお伝えしたいんです。
原発も近くて、伝えなきゃいけない、そういう責任があることにもとても自覚はあるんです。
いままで色々なメディアに応じてきて、その怖さも大きさも知ってきたので。
お手数かけて申し訳ないけれど、もう一度こちらも準備が整った時に来てほしいんです。
お話し出来ることは、私達もお伝えしたいです。
もう一度、来てくれますか?
私達は即座に、もう一度来ます、と答えた。

スタッフさんは若い女性だった。
ポストイットに丁寧な字で企画書の送り先の住所を書いてくれた。
おそるおそる、この近くに住んでいるのか訪ねてみる。
私はこの事務所の近くに家があるんだけどね、子供も小さいから今は岩沼市に家を借りていて、そこから通っているのよ。
本当にこまってしまうわ。悲しそうに、でもきわめて明るい口調で彼女は言った。

ここは特に20キロから30キロ圏内だから、いろいろ大変なの。
安全だかなんだか分からないけど、住めてしまうのよ。
南相馬市でも30キロ以北の鹿島は、震災からしばらく立ったら瓦礫撤去の屋外作業が出来たけど、ここは屋内退避しなくてはいけなかったからそうも行かなかったりね。

20キロとか30キロとか、そんな線が安全と危険を分ける訳はない。
それはきっとここに暮らす人も十二分に分かっていることだと思う。
けれどその線が目に見えるほどに、そこで生活環境が一変してしまうということも、実際に起きていることだろう。
乱暴な線引きによって続く日常がある。
そしてその日常は、どう続くか、いつまで続くのかは全く見えてはこない。

ここより先は住めません、ここより先は住めるので仕事も出来ます。
危険と判断して逃げるのも、そこに留まるのも、個人の判断に委ねられている。
その不親切な自由のなかで、仕事をやめて知らない土地に逃げるのと、仕事を続けて知っている土地で暮らすことを、目に見えない危険との天秤にかけてはかるのは至難の業だと思う。

南相馬の景色を見ていて、ここと放射能は似合わないと感じた。
都会のアスファルトからは流れ落ちる放射能が、土や植物の上には降り積もり続ける。
東京で煌々と光るビルのなかにいる人達よりも、おいしい野菜やお米を作っているおじいちゃんの手や水たまりで遊ぶ子供達の体が、放射能まみれになる。

危険があるのは誰しもが感じている。
でもその危険の大きさすら分からないから、どう恐れていいかも分からない。
南相馬市の日常が、そういう事実で変形させられているんだと思った。
そして、こんなことは起きちゃいけないことだと、強く思った。

山元町に戻り、小森が以前インタビューをした社会福祉協議会の職員さんに挨拶をしにいった。
始終冗談を言っている面白いお兄さんだった。
お兄さんはボランティアセンターが開設されてから一日も休んでいないという。
半休の日には、津波で亡くなった友人のお葬式に行ったとのこと。
嵐のような冗談の中に出てくるひとつひとつが、とてもつらかった。
お兄さんは私達にミルク飴をひとつずつくれた。

Aさんに連絡をすると、山元町でAさんがお世話になっているお家でごはんを食べさせてくれるという。Tさんと、Aさんの友達のOさんという女の子もいるらしい。
なんだか嬉しすぎる。

Hさんというお宅だった。
奥さんがお部屋を飾るのが好きなようで、かわいらしい小物がたくさん置いてあった。
テーブルに料理が並び始める。なんだかごちそうで、わくわくする。
Hさんのお父さんは消防署に勤めているそうで、震災の時はとても大変だったという。
状況の分からないなか遺体捜索をする。
近所の人と協力しあってお米を集めて署員のご飯を作り、家族の安否もわからない部下を励ましながら、指揮をしていたという。
その現場は私には想像出来ないほどに壮絶なのだと思う。
そのお父さんが今こうして食卓にいることがなんだか不思議に思えてしまう。
前にも書いたけれど、被災した人その場にいた人達は、普通のお父さんやお母さんや子供やおじいちゃんおばあちゃん、、なのだということを感じる。
もちろん原発の被害を受けている人もそうなのだ。

たくさんおいしい食事をいただいて、色々な話をした。
また泊りにきてね、と言ってくれたのが、とても嬉しかった。

小森が今日の夜行で東京に一時的に戻るので、仙台に帰る。
私はしばらく絵を描いたあと、日記を付けてから眠った。

 

 9.20(10.20)

 

 

onagawa

 

 

今日は研究室の友達の友達と言うドイツ人の男の人と合流。閖上へ案内の途中、ここには町があったんだよ、と伝えると彼は言葉を失った。ドイツでは原発の報 道しかないから、津波の被害があるとは思っていなかったとのこと。あんなにYOUTUBEに流れている津波の映像すら、見たこともないと言った。

インターネットで世界が繋がっていると言ったって、アクセスする気がなければ、知るべきことすら知らなかったら、何も見ることはできない。でもそれは悪い ことでもないようにも思う。大きな都市より小さな村の方が防災の手だてが立っていることが多い。その土地で完結する、その土地を良く知っている。

私はこの滞在で小さなコミュニティの強さをたくさん見たように思います。それは夫婦、家族、お隣、町内、と円が広がっていくみたいに構成されていっている ように思う。とにかく仲のよいご夫婦が多い。町は町からできるんじゃなくって、ひとりとひとりの関係から広がってくようにできるものなんだと思う

ちょっと話がそれちゃった

その後福島県南相馬市へ。南相馬には二つのボランティアセンターがある。ひとつは20キロ圏内を含んでいて、もう1つは含んでいない。20キロの線なん て、そんなものではきっと危険かどうかなんて分けられないのだけど、そこに住む人にとっては明確にはっきりと見える線が引かれているよう。

20キロ県内を含むセンターでは、伝えることにとても慎重になっています、とおっしゃった。正確なことを伝えたいし伝える責任があると思う。でももし少し でも間違ったことを言ってしまったら、もし無責任な編集をされてしまったら、なんでも広がってしまう。メディアの怖さをひしひしと感じています。

でも、お伝えしたいことはたくさんあるので、正確な資料のある日にまた、来てくださいね。と言ってくださった。

何が危険かどこが危険か、それを線で分けるのはとても乱暴です。でも、その乱暴さによって続けられている日常がある。誰だって日常を続けたい。日常が何に よってできているかなんかうまく言えないけど、でもそれを失ったり変形させることはとても怖いことだと思う。でもなんで怖いのかは実はわからない

放射能と南相馬の町はとても似合わないと思いました。静かな町の、小さな漁港や、農家さんや、おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さん、こども達 の日常が無理矢理変形させられていて、危険かどうかわからないからその変形をそのまま受け入れなくてはならない。怖がることすら許されていない。

やっぱりとてもおかしなことだと思う。こんなことは起きちゃ行けないと思う。文章がよくわからなくなっちゃったけど、とてもつらすぎる。

twitter@seonatsumi