2011.9.26(2011.10.26 seonatsumi)

 

コンビニの駐車場で目が覚める。

そのまま大船渡のボランティアセンターへ。
突然にも関わらず、Kさんという私達と同い年のスタッフさんが対応してくれた。
彼は大船渡市出身で、震災前まで盛岡で仕事をしていたが、震災後大船渡に戻って来たとのこと。

彼は大船渡に仕事がないために盛岡まで上京していたが震災で実家が流されたために戻って来て仮設に暮らしているという。
若い世代が市外や県外に流出することもある程度仕方がない、ここには仕事も情報もないのだから。
彼や、彼の友達は津波が押し寄せる危険な場所にはもう住みたくないと言っているという。
若い世代の話を聞くことがあまりなかったので、すごく新鮮に感じた。
沿岸で頑張って元の町を取り戻そう、と言っているのはほとんどが50代以上のように感じる。
この地で生まれ育って、ここで暮らして、この土地に関わる仕事をして来た人達だ。
この土地以外知らないから、ここで暮らしたいんだ、と彼らは口にする。
この町以外の場所で暮らすこと自体が、彼らの発想にはない。
この町で暮らすとこが、彼らの人となりの中に組み込まれているんだと思う。
でも、若い世代にはそれはあまりない。
情報も自分の手で探す術を持っているし、年数も浅いと言えば浅いからかと思う。
だから、何度も津波が来たことのある危険な町にもう一度住むことより他の選択肢を自然に持っている。
町の形を変えることにもそれほど抵抗がない。
高台に移転したり県外に出たり、各々の考えを持ち合わせているようだ。
年を取るごとにこの町以外の情報を得ようとしなくなるのか、他の町のことに興味が無くなるのか、この町で仕事をしているから他の町にいかなくなるのか、それとも根本的に世代間の考えの差なのかはわからない。
れど、若い世代と高齢の世代で、今の時点で意識に差があるのは事実だと思う。
それでもきっと町の中でそれぞれが見えている未来の形にはなにやら大きなぶれがないような気がした。言葉やタイミングは違うけれど、きっと。

大船渡から移動して大槌町へ。
社会福祉協議会のボランティアセンター。
立ち上げ当時からいたというOさんというスタッフさんにお話を伺う。
Oさんは年齢は30代くらい、手には指の部分のない黒い手袋をはめていて、言ってしまえばヤンキーファッションのような格好をしていた。
煙草を吸っている。
すこし怖がりながらも話しかけてみると、ああ、良いですよどうぞといって部屋にあげてくれた。

Oさんは床に直に正座をして、話をはじめた。
彼は大槌の出身で、長く勤めているという。
Oさんはとても具体的に、冷静に色々なことを話してくれた。

まず、ボランティアがどこまで入れるかの区域分けをしたんですね。
歩いてね。
ここは被害が大きすぎるから自衛隊しか入れない、ここからはボランティアさんを入れる場所、ここは被害のない場所。
危険なことも些細なことも、何でもかんでもボランティアさんにやらせることは出来ないし、なんでもやってくれることに甘えてしまったらどこまでも甘えてしまうでしょ。
被災して大変な人もね、ずっと与えられて受け続けているだけじゃ、どんどん仕事をする気もなくなっちゃう。
いまはもう、なんでもかんでもやってあげればいい時期じゃないんです。
外の人に頼るんじゃくて、地元の人が地元で協力しあわないと、続かないでしょ。
続かないと、この町なくなっちゃいますから。

俺の意見ね、町の復興計画ね、考えていて、津波被害のあった場所は自然公園にして、高台に家をつくればいい。
堤防を作っても自然は人間の想定を越えるんだから、ばか高いお金でそれを作るよりも、津波が来た時に逃げられるようにした方が良い。
国やら行政がどう考えているかは分からないけど、俺はそう思います。

震災後最初の休日にパチンコに出かけたというOさんは、この町のことを良く見ていて、過剰な悲観も楽観もしていなかった。
話すこと全てにいちいち説得力があった。
淡々と話す姿は、なんだか少しのあきらめを抱えた、だからこその強靭な強さが見えるみたいだった。

ふと見ると他のスタッフさん達もとても若い。
器用にパソコンでパスをひいて、何やら地図を作っていた。
何をしているか訪ねると、仮設住宅の地図を一から作っていて、そこに住んでいる人の名前等を記入して、これからの仮設補助に役立てようとしているとのこと。
地図は買うと高いからね、全部作ってるんですよ。
経費削減です。と笑った。

スタッフさんは若くて、割と派手な服装の女性達が多く、ほとんどが仮設から仕事に通っているという。
こうなってしまった現状はとてもつらいことだろうけれど、よく笑ってよく仕事をして、とても冷静だった。
他のボランティアセンターとは明らかに雰囲気が違った。
また、ここに来たいと思った。

昨日見て不思議に思った中庭の置物の円陣について訪ねてみると、スタッフさんは真顔で、シェンロンを呼んでいるんですよ、と言った。
どうもドラゴンボールの、7つ集めるとあらわれるとあの竜のことを言っているらしい。
私達が一瞬固まるとスタッフさんは、冗談ですよ、と言って笑った。

約束をさせていただいたので山田町に移動する。
山田町のボランティアセンターは半分がとあるNPOによって構成されている。
なにやら複雑そうである。

社会福祉協議会のスタッフさんがお話を聞かせてくれた。
私達と同い年だと言う。
彼の話で1つ特に印象に残っていることがある。
それは小学生の時に全校生徒で演じたという津波についての演劇だ。
彼は波の役だったと言う。
沿岸各地に津波を伝えるものがあるのはいくつか聞いた。
田老の絵本、石巻のズーズー弁のコントのような演劇、語り部、看板、モニュメントなど。
でもこのように誰もがカリキュラムとして通る道に、津波の演劇があって、しかもそれを町の人が見に来る習慣があるというのははじめて聞いた。
これを教訓にして何人の人の命が助かったかなんて分からないけれど、津波を忘れないことを習慣づけることはあったのではないかと思う。
いつか絶対見たいと思った。

ボランティアセンターを出た所で、以前来たときもお会いしたHさんと言う方にまた会った。
これから山田町に入っているNPOのリーダーのような人と地元の漁師さんと飲むから一緒に来たら、と言われた。
私達はついて行った。
NPOのリーダーのKさんと言う方の泊っているお家に泊めさせていただくことのなり、久しぶりの布団を想像して私達は嬉しくてはねあがった。
お家にはKさんのお友達のMさんという方が連れて行ってくれた。

荷物などをひとまず置き、すこしお酒を飲んでからKさんとMさんと一緒にタクシーで飲み屋に行く。
津波で壊れて灰色になって、街灯も少ない薄暗い町を、タクシーはすいすいと走って行く。
津波が来る前となんら変わらないように、道に迷うことも無く走る。
薄暗い砂埃の町のなかに、小さなネオンが光っていた。
そこは私達が8月に訪れた際に見かけた、津波で線路も無くなった駅の近くに出来たのみ屋さんだった。
ここは、何もなくなってしまってもここの人達にとっては駅なのだなあと思ったのをよく覚えている。
今日はネオンの奥から笑い声があふれている。

お店に入ると客席はほとんど満杯だった。
テーブルではHさんと漁師さんが飲み始めていた。
おいしそうな魚中心の料理達が並んでいる。
漁師さんは、山田町自慢の魚が並んでいることだけで、すごく誇らしそうだった。

ご飯をいただきながら、いろんな話を聞く。
漁師さんは遠征漁に行っていたときの話とか、子供の話、男としての生き様の話等を力強く語った。
山田町もな、漁業から復活しなきゃなんないんだよ。
それにKさんが協力してくれるって言うんだ、ありがたいねえ。

NPOのリーダーであるKさんは山田町でビジネスを起こそうとしていた。
それは一見その町のためにやっているようだったけど、話を聞いているとそれも少し違うように感じた。
漁師さん達の願いと、外から来た人がビジネスとして成立させようとしている事柄とはやはりズレがある。
外から来た人がこの状況で、自分の考えとお金をちらつかせることは暴力じみているように感じた。

その後隣のスナックに行って、またタクシーで宿に戻る。
なんだかさっきの話に納得出来なくて、はやく別の所にいきたいなあと思った。
小森にいったら、小森もそのように感じているみたいだった。
お世話になっているのに申し訳ないけれど、
とびきり早い時間に目覚ましをかけて眠った。
朝はこっそりと抜け出そうと思う。

 9.26(10.26)

 

 

 

onagawa

 

奇跡的にインタビュー三件取り終え、これから山田町のおじさん達と飲むことになりました。山田町不思議な町です。

大船渡、大槌、山田町でお話を伺う。それぞれの町の社協で働く(もしくは働き始めた)若い世代の方達。みなさん真剣に、でも淡々と、この町がどうなって いったらいいかを考えている。自分たちの世代以外と、また自然の環境と、いまの状況と共存する位置に、これからの町のイメージがあるように思う。

世代で意見が違うとか町への愛着が違うとか、そういう見方もあるかもしれないけど、でも1つの町で起きている感情はそんなにばらばらでないような気がしま す。お互いが思うよりもずっと似た景色を見てるような気がします。私が彼らの言葉を聞いた時に浮かぶ景色は、大きな部分が重なるように思います。

夕方には山田町の居酒屋さんに連れて行っていただく。そこは津波が被った一帯のど真ん中、元は駅前の商店街だった場所。先月訪れた時平らになった町を見 て、寂しい気持ちになった場所でした。今日はそこにネオンがついていて、新装開店のぴかぴかの店内は満席で、お客さん達はみんな笑っていました。

街灯もない、灰色の景色のまん中にネオンがついている。それがどんなに力強いんだろう。地元の人にとってはここは駅前で、ここに明かりがつくことは人が集まる大きなきっかけになるんだと思う。駅舎がなくてもロータリーがなくても、ここが駅前の商店街の始まりになる。

明日は気仙沼に行きます。東北滞在もあと5日です。短かったようなきもするけど、色んなことを吸収したと思います。それを、どう伝えるか考えながら眠ります。おやすみなさい。

最近、現地で津波の話を聞いてるとすごい泣きそうになる。前よりもっと。何か変わって来てるんだと思う。ひとも町もわたしもすこしずつ。

twitter@seonatsumi