2011.9.27(2011.10.27 seonatsumi)

山田町の宿で早朝に目覚める。
小森を起こして書き置きを置いて、そうっと家をでる。

車に乗り込み、大槌の方向に向かう。
私達は大槌の景色を見たいと思っていた。
大槌町のコンビニに寄る。
通勤前と思われる人達で混雑している。
多くは工事現場の作業着や、大工さんのような鳶職の格好をしていて、スーツの人はいない。
見た目は少し怖い。
コンビニの店員さんがとてもてきぱきと働いていたのが印象に残っている。

駐車場で朝ご飯を食べて、大槌町内の吉里吉里という地域の方面に向かう。
私達は吉里吉里という語感が気になって、以前インターネットで調べたことがあった。
そのなかで、吉里吉里でミニ独立国という動きがあったことを知る。
説明はリンクを参照してください。
ということで、一体この地域はどんな濃ゆいコミュニティーを持っているのだろう、、と気になっていたのだった。

吉里吉里駅に着く。
吉里吉里の広い範囲で被災をしているが、駅は少し高台にあるため無事だった。
なんと言うことのない、小さな駅だった。
駅前にもささやかなロータリーがあるだけで、周りにはお店もあまりない。
ただ、高台にあるために、残った町並み越しに、平らになった薄茶色の町がよく見えた。
おはようございます、と町の人に声をかけられる。
それ以上会話をする訳ではないが、何気ない挨拶をしてくれる。
親しみの感情か、警戒の予防線かはわからないけれど、嫌な感じは全くしなくて、むしろうれしかった。

しばらく歩く。
流されて土台だけになってしまった町並みを黄色い帽子をかぶった小学生達が集まって登校している。
薄茶色の町に、黄色い帽子や赤や黒のランドセルが色鮮やかに見えた。
どこの町にでもあるような朝の光景がここにもあって、私は勝手にすごくほっとしたのを覚えている。
人がいれば町は町として動き出すのだと思う。
人の動きが交差する場所が町になるのだと思う。

津波で壊れた町並みも、丁寧に片付けてある印象だった。
出来るだけ、片付けて、そこに花が手向けてあった。
片付けてあるから、花がよく見える。
片付けることと弔うことは似ているのかもしれない。

大槌から移動して気仙沼のボランティアセンターへ。
気仙沼は4月から何度か訪れている。
ボランティアセンターでお話を伺うのも二度目だ。
気仙沼は運営自体も県外ボランティアが多い場所だと思う。
前回お話を聞かせてくれたのは、横浜の船上でジムのインストラクターをしているというクリスチャンの若いお兄さんだった。
100日と決めて、ここの運営のボランティアに来ているんです、と語る彼は、とてもよく気仙沼の町と人を見ている印象だった。
他のボランティアセンターの状況を伝えると、丁寧にメモを取っていた。
すごく表情豊かで不思議な人で、またあいたいと思った。
他のスタッフさんに尋ねてみると、もう横浜に戻ったようだった。
また追いかけてでも会いたいね、と小森と話す。

今回話を聞かせてくれたのは、生まれも育ちも気仙沼という女の方だった。
彼女は子供を育てながら、家の家事をしながら、毎日このセンターの運営をしていたという。
母は強いというのはここでもそうなのだなあと思う。

あなた達にも出来るわ、人間誰しもそういう状況になったら、そうするしかないから、そう出来るのよ。
私は気仙沼出身でここから出たことがないから、この町が早く元気になって欲しいの。
気仙沼はね、漁業の町だから。
漁港が回復しなくては何も始まらないの。この町は漁業に誇りがあるからね。
今年もとっくに漁は再開していて、毎年恒例のさんまも例年と同じ数出荷することが出来たのよ。
彼女は誇らしげに町の話をした。
この町はどう言う町ですか、という質問に対してこの町でははっきりと躊躇無く答えられる人がきっと多いのではないかなと思う。

スタッフさんに聞いたおすすめのランチがあるというお店に行く。
道すがらの町並みは、4月に来たときと大きくは変わっていない印象だった。
商店街は片付けてはあるけれど建物自体壊れたまま、信号も点いていないし冠水している。
でも、漁港に出ると途端に景色が変わる。
プレハブの大きな市場とお土産屋さんが出来ていて、観光客もちらほらと見受けられた。
船もたくさんついている。
漁業の町、気仙沼はここから出来て行くんだと思えた。

ホテルのレストランで海鮮丼を注文する。
店内はお昼過ぎにも関わらず混雑している。
800円で非常に贅沢な海鮮丼が目の前に現れた。
小森と私は嬉しくてとびはねるようだった。
すごくおいしかったのだ。

漁港を少し歩いて、疲れて車で昼寝をしたあと、さきほどボランティアセンターで伺った、気仙沼の津波防災記念館に行こうとしたが、あいにく休みだった。
そこでは津波を体験するような施設があって、津波の映像とともに轟音や振動を体感することが出来るという。
次回は絶対に行こうと思う。

気仙沼の本吉と言う地域に行く。
気仙沼市内にボランティアセンターが二つあると言うことを聞いていたので、不思議に思っていた。
でも、車で移動している間に景色を見ていて、なんだか納得した。
気仙沼市街の、古くからの漁業の町という町並みから、田んぼ中心ののどかな町並みに移行して行く。
雰囲気が全く違うのだった。
本吉は気仙沼にここ最近で合併したばかりだという。
平成の大合併の影響で地区ごとに支所を設けてボランティアセンターを運営している場所も何カ所かあった。
東京に住んでいる私は合併についてあまり考えたことがなかったけど、東北に来ると、それは町の歴史の中でおおきな分岐点になっているのが分かった。
ニュースで見ている話題と現実が合致する。
ニュースの中で起きていることはフィクションに見えてしまうけど、どこかでは切実に生活の中に介入していたりするんだ。

本吉に着く。
公民館のような場所の一角にボランティアセンターがあった。
とても優しそうなスタッフさんがひとりで受付にいて、閉所の10分前にも関わらずお話を聞かせてくれた。
ここは小さいから、運営はいつもひとりかふたりしかいないんですよ、といって笑った。
話している途中、公民館を利用する市民の方が通りすがると、彼は自然にこんにちは、と声をかけた。
大丈夫ですか忘れ物ですか、お家はどうですか。
あらら公民館に忘れたものも預かっててくれたの、ありがとうねえ。
災害ボランティアセンターの機能以上の、この町のコミュニティーを支えるような、そんな場所になっているみたいだった。
少ししかお話を伺えなかったが、素敵な場所だと言うことはすぐに分かった。

気仙沼港に戻る。
船が見たいと思った。
夜の気仙沼は真っ暗で、地盤沈下と冠水でかなり車で走るのも怖かった。
でも、港はやはり明るかった。
何十隻と繋がる全ての船に明かりがともっていた。
甲板で酒盛りをしていたり、漁の準備をしていたり、煙草を吸っていたりと、明るい声も響いていた。
煌煌と光る船の灯は、この町の人々にとってどれだけ頼もしいものなのだろうと思う。
この町はここから復活して行くんだ、と信じられることが出来たら、それはすごく良いことなのかもしれない。
それによって置いてけぼりになる場所もあると思うけれど、こういう順序だった町の成り立ちもきっとあるのだろう。

帰り際に石巻のおばちゃんのお家に寄って、小森のお茶を渡した。
またおいしいご飯をいただいた。感謝。
ここに来るととても幸せな気持ちになる。

仙台に向かって走りだす。
今日はとても寒かった。
久しぶりにゆっくり眠れると思うと、なんだかすごく安心した。

 9.27(10.27)

 

 

onagawa

 

山田町から大槌町へ。あさやけ

吉里吉里にいます。中学生が自転車で登校して小学校からはあいさつがきこえてみどりのおばさんが信号機の前にたっている。平らな町にひとがたくさん行き来している。よく晴れています。

今日は朝から大槌町にいました。ほとんどの建物が土台だけになった景色の中に、自転車に乗った中学生、列になった小学生、作業に出かけるトラック、重機、 通勤の自家用車、ごみすてのおばちゃん、みんなが一日をはじめていました。いつでも、どこにでも朝は少しほっとする明るさを持ってくると思います

大槌町を歩きました。津波が来た場所を、とても丁寧に、片付けている印象でした。その家その部屋で使われていたもの達がきれいに切り離されて、家は白い基 礎だけになっていました。いくつかの基礎の上に新しい花が手向けてありました。片付けられたから、やっと、花が手向けられるのだなと思いました。

移動して3ヶ月ぶりに気仙沼へ。ここは漁業の町なんです、漁業から動いていかないと、他が動かないの。そう言ったおばちゃんのお話の通り、漁港には真新し い市場が出来ていて、大きな漁船がたくさんついていました。でも、そこ以外、市街地や商店街は3ヶ月前とあまり変わっていないように思いました。

もし、この町は漁港から動かなきゃ行けない、ということがこの町の人々が思っていることだとしたら、こういう風に復旧に時間差があってもいいのだろうと思 います。私は、漁に行く船が煌煌と光っている姿がとてもかっこいいと思った。この姿についていきたいと思うし、多分船はそれを背負う気概がある。

気仙沼プラザホテルの海舟、ランチタイムだと鰹といくらとネギトロがのった海鮮丼が800円です。めちゃうまいです。

夜になると真っ暗な沿岸沿いの道路を走る。町があった場所は、暗闇にうす灰色の景色が沈殿しているようで、いつも怖い。明かりを灯す、往来する、声が響 く、人の動作が入ったとき、その景色は怖いものでなくなる。それが一概にいいとは思わないけど、人の手が入ったことがある場所にはそれが似合う。

45号線、暗い、平らな町の景色の中にぽつぽつと仮設のお店ができている。なかから声が聞こえて来て、私はそれでほっとする。

あとすこしで東北生活も終わり。10月というのもあって、周りの人達もまたいつもいる場所に少しずつ戻っていって、寂しさと少しの焦りを感じる。私はこれから、どの場所で、どんな態度を取るのか、考えていきます。伝えることを、惜しみなくしなければ、と思うのです。
そういえば石巻ではズーズー弁によるコントのような劇、山田町では小学校全校生徒による津波体験の劇、田老では紙芝居、気仙沼では津波体験館、、色んな伝え方がその土地に残ってるみたいです。気になるメモ。

twitter@seonatsumi