2011.9.28(2011.10.28 seonatsumi)

朝飛び起きて南相馬に向かう。
原町区のボランティアセンターの若い女性の職員さんにお話を伺うことになっている。
前回は40代の男性に伺ったので、女性のお話も伺いたかった。
インタビューのお相手はSさんと言う方で、最初に南相馬に来た時に対応してくださった方だ。
ここにいるということで、私達には現実を伝える責任があると感じているとおっしゃっていたのが強く印象に残っている。
そして同時にテレビや新聞の媒体を通じて伝えることの怖さも痛感しているとおっしゃっていた。

ボランティアセンターに到着。
前回と同じ椅子に座って少し待機、Sさんがいらっしゃる。
わざわざ来てくださってありがとうね、とSさんは話し始めた。

地震があった時、私はこの事務所にいて。
まあまさか津波のこんなに大きな被害があるとは思わなかったです。
まずは職員達の安否を確認して、家族の無事を確認してから、老人ホームの施設のお手伝いをしたりしていました。
原発事故が分かったのは12日だったでしょうか、みなさんと同じだと思います。
テレビの報道で見るのと、同じタイミングです。
たしか事故があったのは11日の午前中だったけど、報道があったのは午後だったと思います。
私達が知ったのも11日の午後なんです。
私が住んでいる場所は原発から約25キロの場所にあります。
子供も小さいですし、すぐに車で避難をしようと思いましたが、いろいろと準備をして時間がかかり、23時頃になりました。
その時はたしか、マスクを着けていました。
でも、2歳の子供がずっとマスクを着けていられるかって言われたらそんなことはなくて、すぐに外してしまって、とても不安でした。
うちは、夫と夫の父親がこの土地にいなくてはならない仕事をしているので、彼らはここに留まることになりました。

原発から25キロのこの場所でも、東京にいた私達でも情報が届くスピードは同じらしい。
情報は物質ではないからだ。発信する時と到着にほとんどタイムラグがない。
だからこそ、発信する側はとても考慮しなくてはならない。
けれど、あの状況で発信する側の考慮の正しさは必要だったのだろうかと思う。
とにかく逃げる、危険なのではないかと言うことをすぐに伝えることは情報を最初に得た人達の使命だったのではないかと思う。
黒々とした津波を見たとき、人々は逃げろと叫びながら高台に登った。
一瞬の判断が必要なときがあるのだ。
もしかしたら、原発というもの自体が自然なものからは乖離しているから、その時の判断も瞬間的な判断と乖離してしまったのかもしれないとも思う。

私達は群馬の親戚の家に3月の終わりまで避難をしていました。
親戚達は、もう南相馬には戻らない方が良いと言いました。
私もそうかもしれないと思いました。
でも、夫やおじいちゃんと離ればなれで暮らすのは、子供にとっても私やおばあちゃんにとっても良くないことだと思いました。
25キロの場所にある持ち家は新築だったのですが、危険かどうかも分からないし、これから一生住めるのかどうかもわからない。
とりあえずというかたちで、南相馬に通える範囲の、宮城の県南の賃貸のアパートを見つけて、そこからみんな通っています。
子供は新しいお家の近くの幼稚園に通わせている。
けど、宮城の県南は福島県内より放射能に対する危険意識が低い感じがして、例えばお母さん達もそんなに過敏じゃないし、それはそれですごく不安なんです。

南相馬にとどまる人もいます。
すぐに県外に避難して、戻ってこない人もいます。
ひとりひとりが、ひとりひとりの判断で動くしかないんです。
国の対応を待っていたら、もうきっと手遅れだと言うことはみんな分かっている。
自分の持っている条件、家族やご近所付き合いや土地との関係やお金や家や仕事や、、いろいろを自分達で見て、判断しなくてはならないんです。

それは、どんなに孤独な判断なのだろうと思う。
目に見えない物がいつまでそこにあるのかも、将来的にどの程度危険なのかもわからない。
そんなものと自分の生きて来たなかで得た持ち物全てとを、天秤にかけろと言うことなのだと思う。
一筋縄で決められることではない。

わたしは東京でただ入ってくるたくさんの情報を見ながら、どうしてそんな危険そうな場所に住み続ける人がいるんだろう?と思っていた。
津波が何度も押し寄せる場所、地盤沈下してすぐに冠水する場所、事故があった原発に近い地域。
大学のキャンパスや会社が近い所に引っ越したりすることが当たり前の私達世代、もしくは東京に暮らしている私のような人にとっては、その場所でないとならない、という発想自体がきちんと想像出来ないような気もする。
でも実際の暮らしの中で、移住と言う選択を簡単に選べる場合と言うのは、本当はすごく少ないんだと思う。
持ち物が多いとか、関わる人が多い、長い間その場所にいた、その景色以外をあまり見たことがない、など。

Sさんは、本当に先のことが全く分からなくて不安ですよ、どうしたらいいのかしらね、と言って力なく笑った。
不自由さはあるけれど、普通に暮らせてはいるから普段は忘れていられる時間もあるけれどね。
本当は子供がふたり欲しかったんだけど、夫はずっと南相馬にいたし、私も事故当時ここにいたから、子供はあきらめようかなあって思ってるの。
どんな影響があるのかも分からないし、お金も目処がたたないしね。

どんな出来事でも、思い描いていた未来を変化させてしまう可能性は持っていると思う。
けれど、原発の事故は未来に生まれるかもしれなかった命の存在までも揺らがせてしまう。
これはとても大変なことだと思った。

あなたたち、南相馬に来るの怖かったんじゃないの?大丈夫?
Sさんの問いに私達は、すこし怖いです、と答えた。
Sさんはそうよねと笑って、もしまた話を聞いてもらえたら嬉しいわ、と言ってくれた。
また来ます、と言ってボランティアセンターをあとにする。

その後、亘理へ。
移動の途中で小森といろいろと話すが、どうもお互いにうまく伝わってない感じだった。(主に私の不機嫌が原因かと、、申し訳ないです)
今後どうやって活動を続けるか、作品を作って発表をしていくか、など。
このひと月のことを毎日30日遅れで日記にしてウェブ上にアップし続けることだけ決めた。
ふたりきりで続けるには限界がある。
表に発表しながら続けるのが良いのではないかと言うことになる。

亘理のボランティアセンターへ。
若い人が多く、とても仲がいい和気あいあいとした雰囲気。
この春から新人として就職した若者が同い年だったりして、楽しく話が聞けた。

各地のボランティアセンター同士で交流があったりする場所もあるという。
あそことは方針が違うから気があわないとか、あそこのスタッフとは飲み友達であるとか、そういう個人の行き来で情報が動いたりするのだと思う。
それはいいこともわるいことも含みつつ、そういうものだろうなあと思った。

亘理のオリジナルTシャツをもらって帰る。
亘理のキャラクターはとてもかわいい。

私も小森も随分と疲れていた。
仙台の宿で少しだけ眠ろうとしたら12時間も眠ってしまった。

 

 9.28(10.28)

 

 

onagawa

 

南相馬市にてお話を伺う。ちいさなお子さんがいる、若い女の人。震災前は南相馬市で旦那さんもご両親もお仕事されていた。30キロ圏内にほぼ新築の持ち家 があるけど、いまは宮城の南の方にアパートを借りてみんな車で1時間半以上かけて仕事場まで通っている。お子さんは宮城の保育園に通っている。

旦那さん、お父さんは仕事の関係上南相馬を離れられなかったので、事故後もずっと働いていた。奥さんはお子さんを連れてしばらく親戚のお家へ行っていた が、宮城に借家が見つかったので四月の頭から戻って仕事に復帰したとのこと。お義母さんは仕事を退職してお子さんのお世話をされている。

南相馬に入って来ることは大変なことかもしれないけど、中に入って来てしまえば仕事もあるしお店もやっているしで、普通に、暮らせてしまう。でも、この生 活は続かないと思います。子どもをどの小学校に行かせるか、持ち家に帰れても安全なのか、引っ越すにもお金は、仕事は。全て不安だらけですから。

どうしたらいいのか、全くわからない。でも、いま暮らしは続いていて、毎日することもある。不自由さはあるけど、普通にくらせている。でも、とても不安。

野菜は遠方のものを買っているし、水はミネラルウォーターを使っている、線量もネットでチェックしたり。周りには全く気にしていないひとも、そうじゃない ひともいるから、会話に気を使うこともある。このお家はこうなんだって思うしかない。個人の判断で、選んでいくしかない。

私達はお話を聞いていて、終始うまく返事が出来ませんでした。よく来たね、怖くないの?と聞かれて、怖いですと答えたら、一緒に笑ってしまった。また話を聞きに来ていいですかと言ったら、ありがとうね、と言ってくれた。また行こうとおもいました。

さっき書き忘れたこと。子ども三人欲しかったけど、いま悩んでいる。夫は事故後もずっと南相馬にいたし、私も出入りしているから不安がある。多分そうやって悩んでるひとがいっぱいいると思う。とおっしゃってた。すごい大変なことが起きてると思った。

twitter@seonatsumi