2011.9.8(2011.10.8 seonatsumi)

東北に来てから最初のお休みの日、と言うことで昼まで眠る。

なんとか起きて車の掃除をした後、仙台まで歩いて、買い物をする。
物産展で、津波から逃れたわかめと桃を買う。

仙台のLOFTでキャンバスを探す。
小さな、安価なキャンバスを二枚買う。
東北に来て、何度も絵を描いてみようと試みたけど、一度もうまく行ったことが無かった。
見たものをそのまま描くことも、イメージを描くことも、どちらも出来なかった。
東京から分厚くて大きなクロッキー帳と絵の具やらの画材一式を持って来たけど、それを手に取っても何を描いていいかわからない。
実は、スケッチでも良いから一日一枚仕上げて帰る、というのを目標にしていたけど、それは一日目から出来ていなかった。全く何にもならないような、ただ手癖で線を引いてしまうような、そう言う感じになってしまう。絵を描く時が一日の終わりになってしまって、頭が動いていないんだと思う。
見たものをそれがどういうことだったのか考えるのには、もっともっと時間がかかりそうだった。
キャンバスなら、時間をかけて考えられるかなあと思った。

宿に戻る。
おなじみメニューになった、じゃがいも入りのイタリアンオムレツと野菜炒めを食べながら、震災関連のドキュメンタリーを見る。
テレビの中で起きていることは、目の前で本当に起こっていることと無関係なように感じる。
悲しみとか痛みを想像して思うことは出来るけれど、映っているその人に対して感情を持てないような、そんな感じがする。物語のなかにその人が回収されてしまうような、逆転を感じたりする。テレビドキュメンタリーの表現力は多分、現実と切りはなされた場所にある。
では、この出来事を伝えて、記憶と体に残るようにするために出来ることはあるのだろうか。
私は今とにかくここにいて、ここにいるひと達に会いたいし話を聞きたいと改めて思う。それをよく覚えておかなくちゃ、それをとにかく誠実によく見なくちゃ駄目だ。
なんだか、すごくそんな気がする。

キャンバスにふたこぶの山を描いて、でもなんだかすぐに眠くなったので、布団にくるまっていたらそのまま寝てしまった。

 

 9.8(10.8)

 

sendai

今日は1日お休みでした。仙台駅まで歩いて買い物など。夕ご飯を食べながらNHKのドキュメンタリーを見る。原発近くの海岸付近に住んでいた一家の番組。津波で一階が浸かった石巻のお家で、津波からぎりぎり逃げたご家族と一緒に津波のドキュメンタリーを見た事を思い出す

大勢の生徒が亡くなった石巻の小学校のドキュメンタリーを、津波に遭った食卓で見るのはとても不思議な気分でした。でも、そこで見ている家族が発するの は、東京で私の家族が発するのと似た言葉のようでした。テレビで発される形態になった事実は、現実とはなかなかリンクしないのだと思います。

あったことを伝える事、そしてそれが記憶に残るようにするにはどういうことをすればいいのだろう。そこに、どういう表現が必要なんだろう。既存のメディアのフォーマットではきっと足りない物があるという気がしています。

私は、誰かの視点から誰かの考えていることを見ることからそれが生み出せるようなそんな気がしている。それをめちゃくちゃに誠実に受け止めることから、何かが作れるような気がする。

twitter@seonatsumi